生きる為には目覚めなければならない
目覚める為には生まれなければならない
生まれるためには死ななければならない
死ぬためには恩寵がなければならない
恩寵があるためには自己想起がなければならない
自己想起があるためには自己観察がなければない
・・・G I グルジェフ
私の感想
ここでグルジェフがいう自己観察とは何でありましょうか?
クリシュナムルティーは思考なく自己を観察しなさいと言われます。
私達はKから「思考なく見なさい」と言われて、真面目な求道者の方は思考で
「自分は思考なく見ている」と錯覚する方や、「自分には思考でしか知覚
認識することが出来ない」ので「思考なく見る」ことは出来ないと思考
することで、思考によって雁字搦めになっている方がよく見受けられます。
この「思考なく見る」というのは上記のグルジェフの言う恩寵によって
死ぬことが出来て、そして復活し、新たなる超意識が目覚めた方々、
その段階に至った方々にだけ該当する超知覚認識能力であります。
その段階では思考や記憶の反応ではなくて人類には未知である「思考を
超えている知覚認識」、「時空を超越している知覚」があるというのです。
この「思考なく見る」というのは、私達の現在意識の段階である
「潜在意識的状態」から「意識的意識状態」そして人類には全く
理解出来ない「超感覚的意識状態」を経て「超意識的意識状態」
というその高次の段階にある賢者や聖者達にとっての知覚認識状
態であると言えます。
潜在意識にある記憶の反応が自我であると言われております。
その自我が終息し新たなる生を生きている方々にのみ該当する
超知覚認識が「思考なく見ている」目であり、その目が開いた方
は愛に生きることができるのでありましょう。愛の中には思考の
特徴である敵味方や善悪の判断や評価が存在していないからで
ありましょうから。
これは具体的には天地万物一切の生物や無生物とのコミュニケ
ーション即ち同調ができ、天地万物への愛と感謝による一体の
実体意識、万物とのワンネスの状態に至った方々の意識状態で
あり、
そこに至るには多くの段階と修行とプロセスを経る必要があ
るのでありましょう。
そこに至るには努力を努力と思わない熱願が、「成るのではなく
在るのです」と言われるほどの熱い信仰と確信そして帰依心が必要
なのでありましょう。
それを一切無視して、いきなり幼稚園児に大学院生の講義をしても
理解は出来ませんし、理解することもありません。
私は理解しているのだと誤解しかありません。
思考によって混濁している私達には「思考なく見る」を誤解するし
か出来ないのであります。
Kの言う「思考なく見なさい」を実行できる者は、キリストの
「汝の敵を愛せよ」「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」
「上着を盗る者には下着をも与えよ」を実践できる段階の方だ
けであり、
恩寵により「生きながらにして死ぬことのできた人」に限ら
れることでありましょう。愛に生きることが出来る人に限ら
れることでありましょう。
「思考なく見よ」を実践できる人は思考の源泉に至った人で
あることでありましょう。
この私にはいまだ自己観察という最初の出発点にすら至っていな
いのですから
クリシュナムルティーの「思考なく見よ」などは全く絵に描いた
餅に過ぎないのです。
私も同じですが人類には高次思考すら認識できないのですから、
その高次思考を遙かに超えている「万物との同調意識」「アチ
ューメント」、愛の人、即ち「思考なく見る」などの意識状態と
は、私達の意識段階に於いては単なる知識でしかなく、記憶の
中で喘いでいる私達の頭の中だけで推測しているのが思考によ
る「思考なく見ること」を曲解することだけなのであります。
・・この思考による知識とは目が開いていない限り誤解なのです。
ではここでいうグルジェフの言う自己観察とは何でありましょうか?
それはこの混濁している自己を、あるがままの自己を観ることであ
りましょう。
この混濁している自己とはなんでしょうか?
それは自分自身であるのに自己を対象として知覚し見ている私の事。
この混濁している私とは人生の中で相手に出会ったことがない私であり。
一切万物と分離していると実感している私の事。
自己を他者として(相手として)知覚認識している私の事でありましょう。
この混濁している私が、混濁している私を見ているのだということ。
その自己を観ている私とは見られている私であることを凝視すること。
・・・これが自己観察とよばれているのだと思います。
ではグルジェフの言う次の自己想起とはどういうことなのでありまし
ょうか?
それは
この自分自身を対象化して自己である相手を非難して、決して自分以外の
他者・汝に出会ったことのない私を「許し」「お詫びし」「愛し」「感謝
する」ことによって、それを唱えることによって、自己否定が起こるので
あると言われています。
その自己否定が自己肯定なのでありましょう。
その自己否定の状態が自己想起なのでありましょう。
自己否定によって自己が肯定され、その自己を想起することが起こるので
ありましょう。
そしてこの自己肯定が内と外の区別のない偉大なる聖霊からの恩寵によって
「自己の死」へと繋がっていくのであろうと思われます。
この自己実現の手順を示したのがこのグルジェフの言葉なのであります。