ミルダッドは語る・・

非常に難解であり、深淵であり、真理である。


「自己を否定することは自己を肯定すること。」



「時間の手に弄ばれる自己を否定しなければならない。

そのことによって時間の詐術を免れている自己を

肯定することになる。」



「自己忘却を祝う日が聖なる祭りの日である。」


「多くのものは死ぬために生きている

生きる為に死ぬものは幸いである。」


私の感想

ミルダッドは非常に深遠で人類には到底理解しがたい内容を言語に翻訳
して語っているので、私達が分かることは表面的なことだけでありまし
ょう。

「群盲象をなでる」のたとえのように目が不自由な方がそれぞれ象のこ
とを語るようなこととなってしまうことを、まずはじめにお断りしたい。

「自己を否定することとは自己を肯定すること」とミルダッドがここで言
っている自己とは、自己と云っても自己には二種類の『「私」である自
己』があるが、肯定されるべき後者の自己が顕れる為には前者の自己が否
定され祓われなければならないと言うのである。


私達が生きる為には前者の自己は死ぬことが必要である・・と言っている。

通常に目的を持って人生を生きて努力している私達にとってはミルダッ
ドの言葉は理解不能でとても奇異に見えるかもしれない。



未熟なこの私が推測するに・・

前者の自己のこととはこの現在の意識的自己に知覚認識されている自己
のことである事から、この自己のことは推測することだけならば出来そ
うである。

では否定されるべき自己とは、即ち生きる為には死ぬことが必要な自己
とは何か?

この否定されるべき自己とは?即ち「時間の詐術に弄ばれている自己」と
ミルダッドが語っている自己とは何か?、その時間の詐術に弄ばれてい
る自己とは何か?
を思索することとしたい。

「時間の詐術に弄ばれている自己」とは、過去現在未来を実感している
人類共通のこの私のこと・・・それは即ちこの輪廻の度に顕れている私
のことであり、過去現在未来を分離・分割して知覚認識しているこの私
の事であります。通常のごく普通の全く時間というものを疑ったことも
ないし、そのことを全く問題にしたこともない私達、地球人類の私の事
でありましょう。


ミルダッドは過去現在未来というように条件付けられている脳が生み出
したこの時間の観念に汚染されていない立場から話している事に、先ず
はじめに気がつく必要があることでありましょう。


ミルダッドはその時間を超越した立ち位置から
時間の詐術が生み出した自己を否定しなさいと話しているのであります。

では時間の詐術が生み出した自己とは何だろうか?

それは推測するに、この現在意識を覆い尽くしているこの私のことであ
りましょう。

即ち条件付けられている脳が受信した想念の記憶のことでありましょう。

この想念の記憶が「私」と詐称しているこの私の事でありましょう。

この「私」を詐称している私とは、脳が受信している想念の記憶のこと。

この物質界に生を受け、肉体と結合した「現在のパーソナリティー」を
包み覆い隠している記憶の反応のことなのではないか。


その記憶の反応が「運命」「起こっている出来事」「カルマに従って微
塵も狂いなく起こっている出来事」。

即ち私達の内部と外部にプログラムに従って完璧に必然的に起こってい
る欲望、衝動、思考、感情、行為、判断、才能、障害、運命などに対して
この記憶が反応している・・
この記憶である私が反応している・・・。

そしてその反応を肉体と繋がった私達(たましいと繋がっている私)は
自分の反応と勘違いしていると言うことでありましょう。

プログラムに従って内部と外部に起こっている出来事、即ち起こっている
思考や行為に反応しているものとはこの記憶なのである。・・ということ。


その内部と外部の必然的に即ち完全完璧にコントロールされている運命
カルマに従って起こっている思考や感情や知覚や行為に対して反応し
生きているものは記憶なのである。ということ。

プログラムに従って必然的に起こっている内部と外部に起こっている
行為や思考などの出来事に反応しているのは記憶なのであります。

反応しているのは「現在のパーソナリティーの私」ではなくて
それらの「時間の手によって弄ばれている自己」が反応しているので
ある。エレメンタルの私、想念形態の私が行為や思考に反応していると。


起こっている思考や感情や出来事や行為に対して反応しているのは
私ではなくてその否定されるべき私、即ち自己を語る記憶なのである。

ということなのでありましょうか。