見ているのは誰ですか?・・ヒューレン博士



私の感想

私が考えるにヒューレン博士は以下の様に言っているのだと思われる。

私達は一霊四魂即ち真我と諸体から成り立っているのだが肉体と結合し

私という観念と同一化してしまっており、その無知から解放されて四魂

即ちあなたの諸体(表面意識と潜在意識)を再び輝かさねばならない」と。

四魂という鏡が曇ってしまっているのだと。




『見ているのは誰ですか? 誰が見ているのですか?

聴いているのは誰ですか? 誰が聴いているのですか?

話しているのは誰ですか? 誰が話しているのですか?

質問しているのは誰ですか? 誰が質問しているのですか?

考えているのは誰ですか? 誰が考えているのですか?

行為しているのは誰ですか?誰が行為しているのですか?

・・それはあなたではありません。あなたの中にある記憶です。

それ故に記憶と同一化したあなたには自己責任があります。あなたには正

しい行いと、正しい思考が求められます。



計画し、努力し、希望し、失望し、経験しているのは誰ですか?

誰が計画し、判断し、努力し、希望し、経験しているのですか?

不安で苦しみ、支配しようとし、欲望し、高慢なのは誰ですか?

誰が苦しみ、支配しようとし、欲望し、高慢なのですか?

それはあなたではありません。あなたの中にある記憶です。

それ故に記憶と同一化しているあなたは正しく行うことが求められます。



絶望し、恐怖に慄き、苦痛に苛まされているのは誰ですか?

思考し、判断し、感じ、味わい、苦しんでいるのは誰ですか?

誰が思考し、苦しみ、絶望し、恐怖に慄き、苦痛に苛まされているので

すか?

それはあなたの中にある記憶の反応即ちあなたの自我です。

しかし、あなたはそれらの自我ではありません。自我は私という観念です。

けれどもその自我と一体化しているあなたには責任があります。

自我と一体化している現在のパーソナリティーとして一挙手一投足、最大

限に注意し、正しく思い行わなければなりません。



あなたは、自我と一体化しているけれども、あなたは自我ではありません。

あなたは自我ではないの思考したり、判断したり、評価したり、計画しま

せん。

では思考しているのは誰ですか?

誰が思考しているのですか?

あなたは思考しているのでしょうか?あなたは思考するのでしょうか?

それとも思考なく見て理解しているのでしょうか?

思考しているのはあなたではありません。

思考しているのはあなたの中にある記憶なのです。あなたは思考ではない

ので思考しません。思考なく見ているのです、見て理解するのです。

ただ現在のあなたは記憶と一体化して目覚めていないだけです。

思考と一体化しているのです。


感じているのは誰ですか?

誰が感じているのですか?感じているのはあなたではありません。

感じているのは肉体であり、あなたは肉体ではないからです。あなたは

肉体と結合した一霊四魂なのです。


行為しているのは誰ですか?

誰が行為しているのですか?行為しているのは、記憶です。しかしそれは同

時にあなたの記憶と一体化しているあなたでもあります。

従ってあなたにはあなたの記憶による行為の責任があります。


私と思っているのは誰ですか?

誰が私と思っているのですか?


・・・それは

あなたの潜在意識の中にある記憶です。記憶はあなたではありません。

あなたは思考ではないので考えることはありません。在るのです。見ている

のです。思考なく見ているのです。

考えているのはあなたではありません。あなたは思考ではないので

考えていないからです。

あなたは思考なく見ている超意識なのですがその記憶と一体化しています。

あなたは記憶でも記憶の反応である思考でもありません。

あなたは思考ではなく透明な意識、人の心。

人の心とは天の心を顕す鏡なのです。

鏡が人の心です。

鏡があなたの心です。鏡があなたです。あなたは純粋無垢な鏡です。


あなたが私だと思っている私とは記憶です。記憶が私だと思っているので

す。想念形態・エレメンタルが自分は私だと思っています。あなたはその

私ではないエレメンタルを私だと思ってしまっているのです。


あなたの中に有る記憶・エレメンタルが思考しているのです。

あなたの中にある記憶・エレメンタルが行為しているのです。

あなたの中にある記憶・エレメンタルが知覚しているのです。

あなたの中にある記憶・エレメンタルが見て感じているのです。

あなたが見ている世界も、目の前の人も、起きている出来事も、あなたの

中にある感情や欲望や思いや考えも、それはあなたの中にある記憶です。

それ故に、あなたはあなたの中に有る記憶と一体化しているのであなたに

は責任があります。

記憶・エレメンタルの行為と思考に最大限の注意が必要なのです。



あなたが見ている相手とは、あなたの中にあるあなたの記憶の姿なのです。

あなたが見ている世界は、あなたの中にある潜在意識の記憶の姿なのです。

あなたが見ている世界とは、即ち、あなたの中にある記憶の姿なのです。

あなたの中の記憶が相手として現れているのに、記憶はそれを相手で

自分ではないと知覚しています。しかし目の前の人はあなたの姿です。


あなたの考えとは、あなたではなくあなたの記憶が考えているのです。

あなたは超意識・鏡であり思考ではないので思考することはありません。

あなたは透明な心・鏡であり、天の心を内と外、世界を照らす鏡なのです。

あなたが感じているのは、あなたが感じているのではなく記憶が感じている

のです。

あなたが恐れているのではなくてあなたの中にある記憶が恐れているので

す。

あなたが思考しているのではなくてあなたの中にある記憶が思考しているの

です。あなたは思考ではなくて思考を観照している観照者、魂なのです。


あなたの思いや、判断は、あなたの思いや判断なのではなく、記憶が思って

記憶が判断しているのです。


あなたが見ている世界、そして世界を見ているあなたも、あなたの内にあ

潜在意識の記憶の姿なのです。


目の前の相手とはあなたの中の記憶が記憶を見ている記憶の姿なのです。

あなたの中の記憶が記憶を知覚しているのです。それをあなたは記憶と

一体化しているので自分の知覚と錯覚しています。


そのあなたの中にある記憶と記憶の反応(思考)とは

あなたの責任です。

あなたがそれらを生み出したからです。


あなたがあなたの中に有る記憶から解放されるように

内なる「至高の実在」に向かって祈りなさい・唱えなさい。

「御免なさい、許してください、ありがとうございます

愛しています」と無心で唱えなさい。唱えなさい。


潜在意識と潜在意識にある記憶に向かって唱えなさい。

あなたの内なる「至高の実在」に向かって祈りなさい、唱えなさい。

記憶から解放されるように「至高の実在」に向かって祈りなさい、唱えな

さい。

思考や感情や交えずただただ言葉で唱えなさい。』

・・とヒューレン博士は言っておられるのではないでしょうか。



このヒューレン博士の道は、自己否定の道であります。自分が自分を否定

するのであります。

この記憶の自分を自分ではないと否定するのであります。

この私は私ではないと記憶の私を否定するのであります・・そしてこの私は

私ではないと否定することによってこの私ではない私を肯定するのです。

この記憶の私を、この記憶の私の事をこの記憶の私は私ではないと自己否

定することによって、記憶の私ではない私を肯定するのであります。


以上、この様なヒューレン博士の立ち位置は現在のパーソナリティー
や諸体に関しての次元に立っている人達からの教えではなく
更に高次である、「諸体である過去の私達」と現在の私と繋いでいる観照
者、原因体、コーザル原子の立ち位置から話しておられるのでありましょうか
このヒューレン博士達の高次の立ち位置から見た場合には
私達、現在の私を構成している意識のことを、意識ではなくて
記憶の反応・エレメンタルと捉えておられるのでありましょう。

それはミルダッドも同じだとおもわれます。意識は占領されているからです。

ヒューレンのこの立ち位置はクリシュナムルティーや多くの悟った仏教の覚
者の方々の立ち位置からの教えと同じであります。現在のパーソナリティー
とコーザル原子が一つになっていない久保栄治、即ち悟ってもなく、
従って諸体が再形成されていない久保栄治にとっては、理解が全く出来ない
最高の教えである事でありましょう。理解には聖霊による恩寵が必要だと
言われております。

ヒューレン博士達はサイコノエティック体(幽界や霊界)やエーテル複体に
関する事を飛ばしていきなり直接に核心を突いておられるますがヒューレン
博士が言う表面意識とはそれらの諸体(四魂)の状態のことであります。

クリシュナムルティー達は観照者即ち魂から直接語りかけているのであり
諸体やその再形成に関しての部分の解説が省略されているので、
輪廻についてや現在のパーソナリティーの進化過程や三界の詳
しい解説がないのでありましょう。



⇒ここから先は現実の私、記憶の反応である久保栄治というエゴに塗れた
 現在のパーソナリティーの、単に頭だけで考えた事柄であります・・・
 念のため。

 息は誰がしているのだろうか?それは勿論神である。私ではない。
 心臓を創り、血液を循環させているのは誰だろうか?それは勿論神であ
 って、この私ではない。

 脳を創り意識や知覚を発生させ、思考や感情を成立させているのは誰だろ
 うか?
 それは勿論神である。私が脳細胞や脳神経を作ったのではないからであ
 る。私が私を作ったのではないからである。

 誰が食べているのだろうか?それは勿論私が舌や胃腸を創り出して動かし
 て消化しているのではないから。私が肉体を創造し維持しているのではな
 いから、肉体や意識を創り維持しているのは勿論それは私ではなくて神で
 あろう。

 では
 誰が脳を創り、誰が脳を動かし、誰が脳を維持し、作動して、見たり聞い
 たり、記憶したり、苦痛や快楽や欲望や五感と言う知覚を成立させいるの
 だろうか?だれが私という存在を生み出したのだろうか?
 それは脳を作ったのは私ではなくて、私のこの五感も知覚も認識も記憶も
 その脳の結果であるのであるから、見たり聞いたり、感じたり、欲した
 り、味わっているのは脳の創造主に決まっていることであろう。それ故に
 実際には、私やあなたが生きているのではなて、神が個々人として生き
 ておられるのである・・と言うことなのであろうか。神が万物と同じように
 私として生きておられるのであろう。

 では、行為しているのは誰だろうか?行為は脳と神経と筋肉の連携プレー
 で成り立っており、非常に複雑な事柄である。行為を実際に成立させ実行
 させているのは、脳であり、それは脳のプログラムであり、その脳とプロ
 グラムを創造し管理して、実際に動かしているのは神であり、私ではな
 い。この現在意識の私こそ、この条件付けられている脳の結果なのであ
 る。見たり聞いたり思ったりしていることを成立させて私と言う実感
 主体感覚を生み出しているのは神である。


 ということから導き出されるのは
 神が「他と分離している私という錯覚」を使って、神ご自身が苦しんで
 おられるのである・・と言うことだろうか。



 それは神が行為しているのであるということでもあろうか。私やあなたで
 はない。私達は自分が行為していると実感しているだけなのであろうか。

 このように「私が生きていると実感しているだけであって、究極の究極か
 ら見た場合には、私という「万物と分離している私という実体」・・それ
 は真実ではい。神のマーヤである。「神が個人として生きているのだ」
 
 私やあなたという他者(一切万物)と分離しているというようなこの分離
 の実体感覚即ち私とは実は神のマーヤなのではないか?と。

 他と分離している私という実体感覚を使って神が演技されているのである
 と。その神の演技の実体感覚・・それこそがこの自我の実体感覚に他なら
 ないと。
 ラーマクリシュナが言うように、人間とは神の演技であるのならば、神が
 生きておられるのであって、悩み苦しんでいるのも私やあなたではないと
 いうことになる。神が悩み苦しんでおられるのであると。

 その超高次の観点からすれば自我即真我、煩悩即菩提、となるのであろう
 か。勿論私は書いているだけでその理解は全くないのであるが・・。

 では敵とは誰か?殺す者とは誰か?殺される者とは誰か?苦しむ者は誰
 か?それは私もあなたも神であり、神が脳を使って意識や知覚や欲望や意
 志を発生させ、行為し、求め、楽しみ、苦しんでいるのであればそれは
 であるということとなる。神が私として生きておられると。

 このラーマクリシュナの超究極の観点からすれば
 殺す者も、殺される者も、私も、あなたも神が生きて、神が肉体を動かし
 神が演技しておられるのである。私やあなたは神のもの、意識とは神の演
 技であり、神が殺すものであり、殺される者、苦しむ者、楽しむ者であり
 、苦しむ者であることだろう。神が殺し殺されるものであると。
 全ては神の演技であると・・。この私自我さえも神の演技となる。

 ・・しかしこれらのことは全く以てこの私の実体感覚ではない・・

 【呼吸しておられるのは神であって、私ではない。
  行為しておられるのは神であって、私ではない。
  私やあなたとは神の演技。
  私やあなたを使って神が生きておられるのである】とラーマクリシュ
  ナ。

 悟った方々はその神のことを「わたし」と言っておられるのである。

 何故ならば如何なる悪人であっても、このわたしやあなたの実相は神であ
 るからであると仰っておられる。


 意識し、思考し、感じて、知覚し、記憶している者は私ではない。現実の
 この私の意識とは条件付けられている脳の記憶の思考だからである。
 だからこの自我の私とは単なる記憶の反応なのであると。
 だからこそこの記憶の反応である自我と一体化した肉体と繋がった私達
 (たましいと繋がっている私)には記憶の反応としての行動や
 思考に対する責任があるのである。私達が思考し行ってしまったから。

 ・・・ヒューレン博士のような「I AM」の実体験をしていない久保栄治
 はそれを体験していないので、このような思索も実は記憶の反応に過ぎ
 ないことだろう。

 



それ故に超究極的には
神が私であり、神があなたであり、神が殺すものであり、神が殺される者で
あり、神が敵であり、味方であり、神が一切万物であり、一切万物、私もあ
なたも、神のものであり、神の演技である・・と言うことになってしまう。

意識や感覚や知覚や認識やその記憶は神のものであり。
神が使っておられるのである。私とは神の演技であることだろうと。


・・しかし現実の実際の私の姿は・・と言えば・それは
この私とは単なる記憶の反応に過ぎない・・意識の中身はエゴのかたまりに
過ぎない。
そしてそれ故にこのエゴである久保栄治とは記憶であり、記憶とは
肉体に入った四魂である現在のパーソナリティーとしての責任がある。


・・・しかし、この実際の私の意識段階とはいかなるものなのであろうか?
それは現在の私の五感しか働いていない知覚の段階を見れば一目瞭然であ
ろう。
未熟で愛のない自我に塗れた私の現在意識の状況を見れば一目瞭然であろ
う。
現在のこの私の段階とは5段階中の下から2番目の未だに意識が顕れていな
い記憶の反応が意識を占領している「潜在意識的意識段階」であるのに、そ
の潜在意識の記憶だけで、さも分かっているように偉そうに言っているの
だけなのであります。