自我の終焉・・クリシュナムルティー


私の感想

自我の終焉とは何か?

ではそのまえに自我とは何だろうか?

自我とは「自分は世界と分離している」と思っているこの私のこと。
しかしその私とは世界で皆同じであり世界で一体の私の事ではないか
この私とは全人類で同じの「私という観念」なのではないか?

その観念は自分は世界と分離していないのに、自分は世界の一部なのに、
「私は世界と分離している」と錯覚し、
かつまた、自分は神の一部分なのに、又その一部として自分は生かされて
るのに・・
自分が生きていており、自分の肉体であり、自分は肉体であるから死ん
で生まれるとその様に思っている世界で共通の私の事なのではないか?

その自我が私を覆い尽くしているのではないか?
即ちその自我とは、人類で一体の「私という観念」の記憶であり、その記憶
の反応のことであろうか?


自我の終焉とは
私を覆い尽くしていた無知が終焉したとき私の意識が顕れるのではないか?

その私の意識のことはこの記憶の反応である自我は知らないことだろう。

では自我とこの私との関係とは何だろうか?
それは、この私が私を覆い隠している記憶の反応即ち自我なのではないか?
何故ならば、これを書いているのは記憶であり記憶の反応の思考であるから
だ。

私達が自分自身の意識だと思っている意識とは意識ではなくて意識を被っ
ている記憶なのではないか?そしてその意識を自分の意識だと思っている私
とは意識ではなくて私を被っている記憶なのではないか?

しかし記憶の反応の思考とは、記憶の反応の思考には未知であっても
そこに意識の座がなければ、そもそも思考すら成り立たないのである。

それゆえ、この記憶の反応も、意識があるからによって起こっていると
言える。

さて自我の終焉とは
それは私によって覆い隠されていた私が顕現することであろうか?
それはこの知覚が実際に超知覚へと変わり、動物や植物や物とも心が通じ合
い、同時に違う場所で見たり、聴いたり、複数の違う場所にいたりすること
が出来ていること・・「愛」が育ち始めていること・・即ち、自分を忘れるこ
とができはじめていること・・であろう。

知覚が記憶によって支配されていたのが、知覚が解放されるのだろう。

即ちこれが、諸体が形成され始めているという証であり
自我の終焉に近いことの証拠であろう。
とおもわれるのである。

意識は頭脳によって時間と空間の条件付けを受けているが、
その条件付けから解放されて、「永遠の今」を知覚認識している状態が自我
の終焉に近いことを示しているのであろうか。

・・・この彼岸にいたろうとしている状態のことは私にはさっぱり分からな
いのだが・・・。

さて心または意識とは、本来は自我のものではない。意識は思考ではない
ことだろう。
・というのも
人の心自体とは、黒住宗忠がいうように天照大御神の御分心であるのであ
り、そしてまた人の心は、我の心即ち「私という観念」の記憶ではないの
であるが、

人の心は我の心によって完全に取り囲まれ汚染され、一体化してその記憶か
らの自由がない意識状態なのであり、意識は思考と一体化してしまっている。

その状態とは意識は記憶と一体化していて脳から自由ではないと言うことで
ある。

しかしながら「人の心」である心、若しくは意識そのものとは決して我の心なのではないと。

又、心もクリシュナムルティーの翻訳者が「心なく見よ」と誤って意識と思考を混同して述しているが心・意識とは本来は清浄無垢で透き通っているのであるのであり、段階や構成質料やレベルで異なっているのであるが
それらを一緒くたにして心とか思考とかいうことは間違って表現している
のであると思う。・・・地球人には言葉がないので説明不可能なのであろ
う。


しかしながら、私達の意識の状態は、「私という観念」の我の心の記憶によ
って被われ濁っているのに過ぎないのであって、人の心そのもの、人の意識そのものとは決して我の心なのではないのであると。

これは同じく
クリシュナムルティーが「なる事」は「在る事」の否定であり、努力したり
至ろう、なろうとすることは自我の働きであり、自我がないとき、至ろうとすることも、なろうと努力することもない。
・・・といっているのは

それはクリシュナムルティーがいる彼岸からの言葉であり、此岸からの観点
では努力やなろうとすることや在ろうとすることは自我の働きであっても、
それはその働きの奥には神聖なる意志が有ればこそであり、それらはたとえ
自我によって混濁していても、その意志そのものの働きを全否定しまうこと
は、そもそもの現象世界が作られている目的そのものも否定してしまうこと
になってしまうのではないか。

クリシュナムルティーの読者である私達が彼岸からの彼の言葉を此岸にい
る私達が間違って解釈してしまうことの恐れがここにある。

此岸にいる私達がクリシュナムルティー達の彼岸からの言葉を間違って解釈
してしまうのである。・・・それが言葉の限界なのであろう。

この点を
キリストは雑草と一緒に育っていく麦の芽のたとえ話で私達に話している。

成長するまでは雑草と麦の芽の見分けは難しいので草を引き抜かないように
と聖書で述べている。キリストが譬え話で教えているのは正しく正鵠を得
ているたとえ話であると思われる

クリシュナムルティーが彼岸から語りかける言葉を此岸にいる私達では
正しく理解することは出来ないので、私達はくれぐれも間違って畑から
麦の芽を雑草と一緒に刈り取ってしまうことのない様にしたい。

クリシュナムルティーが「思考なく見よ」と言うとき、私達人の心が思考と
一体化している以上は「思考なく見る」事は不可能であり、
私達が動物や植物や物達との会話もなく、愛もなく、自己が忘却されていな
いのに「思考なく見よう」とするとき、「思考なく見ているのだと思う事」
それこそが自我・思考の巧妙な策略・働きであることだろう。

私達のこの思考と一体化している悲惨な状況下では
「思考と共に見ている」事を、「思考に占領されてしまっている」ことを、
「思考から意識が自由ではない」ことを理解することが出来るだけであろ
う。私自我からの解放・思考からの解放即ち「自我の終焉」は恩寵を必須
としている。


この意識が思考から解放されるのは内奥からの神聖なる聖霊の恩寵によらねばならない。
これはホ・オポノポノでヒューレン博士が「至高の実在からの恩寵によって
記憶はクリーニングされる」というのと全く同じで、神道に於いては天照らす御祖の神の恩寵、仏教では観世音菩薩の、阿弥陀仏などからのお力によって記憶からの解放、即ち自我からの解放が始まるのである。


自我からの解放、自我の終焉とは、自我によって為されるのではなくて、全
ての虚偽を看破しておられる至高の実在からの恩寵によるのであると。

クリシュナムルティーはこの点を万人向けに、それらの宗教的な言辞を全く
用いずにその思考、自我からの解放・自我の終焉は「起こる事」であると
言っている。
即ち「恩寵・アザーネス」によって起こるのであると言外に述べておられ
る。


私達この「私という観念」によって完全に支配され、占領されている状態で
「人の心」が、その私という観念の記憶から、即ち低次思考という我の心
から、自己という観念から解放されるのは「内なる神聖なる実在からの恩
寵」によるのであると言っているのである

その恩寵とは即ち聖霊からの、私達のハートの内奥に在る神聖なる存在から
助けに他ならないことだろう。

このとき私達の意識
即ちこの低次思考(我の心)で混濁してしまっている意識は清まり祓われ
本来の輝き即ち我の心ではない人の心が回復することだろう。
ここに於いて
自分を忘れ果てる、自己忘却、自己脱落という人生で最大の奇跡が始まる
ことだろう。

愛の心が周りの全てを癒やし、暖めて平和と秩序を齎すことだろう。

それが神道でいう一霊と一体になった奇身魂、幸御魂の本来の力が現れ始
め、自我が少なくなる始まりの特徴であることだろう。