「立ち向かう人の心は鏡なり己の姿を移してや見ん」・・黒住宗忠


私の感想

これは神道の偉大な黒住宗忠の有名な言葉ですが

通常は立ち向かう人の心に映る自分の姿を見なさい・・
と、その様に思われておりますが

黒住宗忠の言葉では「映して」「写して」ではなくて
「移して」なっているのです。

このことは相手の鏡に映っている自分の姿を
自分という私のこちら側(思考)から見るのではなくて
(即ち自分を自分で評価したり、自分のことを好悪や善悪
で判断したりせずに)


相手の鏡に自分を移して、改めてその神聖なる鏡から
自分が鏡(慈悲・愛)として、鏡に映っているこの自
分の姿を見なさいと言っておられるのでありましょう。

相手の鏡に写っている自分の姿を見るのは、この思考の
私が自分の姿を見るのではなくて、天照大神の御分心と
しての私が相手の鏡に写っている自分の姿を見なさいと
言っておられるのだろうと思われます。

これを再確認すると
天照大御神の御分心である鏡に自分を移して
そこから、その天照大御神の御分心の鏡として
改めてその天照大御神の御分心としての自分
から、この現在の自分の姿を見なさいと教え
ておられるのだと思われます。

私達は通常では思考によって、自分のことを記憶
の反応の思考や感情だと思ってしまっています。

そしてその記憶の思考の私が、記憶の私を見ています。
自我が自我を見て自我を知覚して非難しています。

黒住宗忠が言っているのは
自分の姿をこの自分の観点から自己観察する
のではなくて、(自我が自我のことを自己観察する
のではなくて、)
自分の中にある未知で至高なる鏡(天照大御神の御分心)
の意識を自分に投射して、その投射された鏡としての意
識から、あるがままの自分を愛を以て見なさい・・・と言
うことでありましょうか。

即ち自分を非難したり、判断したり、評価したり、蔑んだり
善悪を決めつけたり、また、自分と同一化したり、自分から
逃避することなく、自分を許し、自分を育て、自分に感謝し
自分に愛を注ぎなさい・・ということでありましょう。

この記憶の反応という低次思考からではなくて、「愛」と
「感謝」を以てあるがままの自分を見なさい・・と言われ
ているのだと思われます。

思考が考えている「自分を見ている自分」とは、何で
ありましょうか?それは天照大御神の御分心である人
の心ではなく、「我の心」なのではないでしょうか。

思考は全てを分離分割しているように自分をも高次の
私と低次の私に分割してしまうのでありましょう。

そして思考は「自分を観察しているのはどの私なのだ
ろうか?」というように質問をし、自分を高次の私と
低次の私に分離分割し固定化してしまいます。

このように自分を思考によって分割してしまうのでは
なくて自分のことを高次と低次の混合複合的、複層的
に坩堝状態として捉える方がより正しい自己認識に近い
と思われます。私達は坩堝なのです。混合状態なのです。

ですので
記憶の反応である思考で自分を見るのではなくて
この現在意識を占領している記憶の思考や低次知覚に
は未知であっても、理性的な信念と想像力を駆使し
鏡である透明な自分の意識を相手の鏡に移して
そこから、この現在の私を見なさいと
教えられているのだと思われます。


これは即ち自己観察に於いては自我である思考がするような
自分に対して判断や評価や非難や一体化や逃避をする
となくあるがままの自分を愛しなさいという
事ではないか・・とそう思われるのです。