バガヴァッド・ギーター

詩節2-18

 

これらの肉体に終わりがあるのは周知のことだが、肉体に宿る者は、永遠、不滅、無限である。ゆえに、バーラタよ、戦え。

 

詩節2-19

 

彼を殺害する者であると理解する人、彼を殺害される者であるとみなす人、いずれも真実を知覚しそこねている。彼は殺害もしないし、殺害されもしない。

 

詩節2-20

 

彼が生まれることは決してないし、死ぬことも決してない。かつて有った彼が有るのを終える、ということもない。不生、永遠、常住で、太古から有る彼は、肉体が殺されても、殺されはしない。

 

詩節2-21

 

彼は不壊、常住、不生、不死であると知る人、そのような人が、おおパールタよ、どうして殺したり、誰かに殺させたりすることができようか。




私の感想


この バガヴァッド・ギーターは間違って捉えられることも

あるので、非常にこの文章には注意して接しなければならない

と思います。


通常の知覚では人が殺されたり、殺したりしていることが、

このインドの聖者には、人は殺されることもなく、従って

人を殺すことは出来ないし、人は誰も殺していない。誰も死

ぬことはない。とその様に知覚しておられるのであります。


これに対して私達の通常の知覚とは、私達は肉体であり、私達

は誕生し、そして年取って死んでいくのだと知覚しているので 

達は人を殺したり殺されたり、自分もいつかは死ぬのだと思

っています。


私達はこの知覚が脳が受け取っている知覚であり、そして、こ

 の知覚は脳が受信してる記憶の反応だとは思いもしません。


自分自身の意識には未知ではあるが魂の超意識や超知覚も存在

しているなどということは全く思った事もありません。


それは熟睡中にも失われることのない超意識のことであり、私

はこの脳以外の高次の超知覚を知ることが全くありません。


悲しいかな、今の私達の意識の段階では、記憶の反応しか知覚

出来ないのです。この知覚は脳が眠ると一緒に眠ってしまい、

脳が目覚めるときに一緒に目覚める低次意識のことでありま

す。


それは現在意識の主体である私達(サイコノエティック体=四

魂)の状態・レベルのことですが、

この現在意識は潜在意識にある記憶と一体化して混濁てお

り、且つその記憶といえば脳と繋がっているので、脳の有る部

位が目覚めると目覚め、脳のある部位が眠るとき同時に眠って

まうのでありましょう


この私達であるサイコノエティック体または神道で言う四魂が

再形成され機能していない限りは、私達は目を閉じた状態で

記憶と一体化して生きているのだと言えるのかもしれません。


ですので私達にはそのような超知覚もなく目も無いので戦争で

は、多くの人々が殺し殺されていると知覚し、人々が亡くなっ

ていくことに私達は悲しみ苦しむのであります。人々の内にあ

る魂を知覚できないからであります。


それは私達の知覚は脳による五感しか働いておらず、五感を

超えている超知覚がある事も知らず魂を知覚できず、五感の

みに縛られていて超知覚を使う事が出来ないからでありましょ

う。

それは私達自身であるサイコノエティック体が記憶と一体化

してしまい機能していないからでありましょう。


そして私達が記憶に混濁し、脳が受信した記憶しか知らず、

日常生活での私達は五感に縛られているのだ・などと言う実感

も全くありません。


私達は潜在意識にある記憶と完全に一体化して生きています。


私達人類の知覚では人は肉体にしか見えないので、人の事を

肉体としてしか見えていないのですが聖者の目には肉体に宿

っている人間・魂が見えているのであります。


即ち肉体に宿っている神聖なる霊魂を見ておられるのでありま

す。


というのも聖者は私達には未知なる超知覚が花開いているから

ありましょう。


聖者にはこのような限定されていない超知覚があるのだが、

私達凡人にはこの限定されている脳による知覚しか働いてい

ないので、私達は人を見ているようで実際には人の事は見えて

いないのであるということです。自分を相手に投影して見てい

るのですと。


私達は、人間や事物を記憶を通して見ているのでありますと。

通常の私達は、人や自分のことを記憶が見ているのだというこ

とを知りません。「私という記憶」が自分を(相手を)見てい

るのですと。



即ち私達は真実は見えていないのであり、記憶が記憶を観察

しているのであると。記憶が自身を対象として知覚している

ので、その記憶が超知覚の目を覆い隠しているのであるという

のであります。・・・かく言う私も真実は全く見えておりま

せんが・・。


私の潜在意識に有る記憶が、その記憶自身のことを対象として

、内部と外部として知覚し見ているのであるというのです。


人類の全ての人はこの限定されている脳の知覚と一体化してい

るので「人間とは肉体なのだ」と堅く思っております。


それは私達が脳と一体化して脳とのパイプは繋がっていても

内なる魂の意識とのパイプが全く塞がれてしまっているので記

憶と一体化して脳が眠れば私達の意識も眠ってしまう訳なので

あります。そしてその脳の記憶が私達の意識内容になってしま

っているのです。

私達と魂とのパイプが記憶で詰まってしまっているからなので

ありましょう。

 

ではその「人は肉体なのだ」と見ているのは誰なのでしょう?


それは勿論この聖者が見ている魂の私ではなくて、記憶の私で

あると同時に、その記憶と一体化してしまっているサイコノエ

ティック体の私(神道で言う四魂の私)でもありましょう。




ではその記憶の私とは何か?

それはこのこれを書いている私、そして読んでおられる貴方で

ありましょう。肉体の死後も生き続けるエレメンタル・人格の

私であることでありましょう。

それは根本無明、根本無知であることでありましょう。

それは人類で同じ一つの記憶であるのに、自らを

分離分割し、自分と私、自身を私と世界に分割し

私は世界と分離していないのに又、私は貴方と分離していない

のに、私を対象として知覚認識して、自分自身のことを相手や

世界として知覚している記憶なのでありますと。

・・その記憶がこのいま現在の知覚している私なのです・・と

そう覚者達は言っているのでありましょう。


自分の思考や自分の感情や、対象としての相手や、世界を

観察しているこの私・・即ち記憶の反応なのであると。


人類で一つの、人類で全く同じ記憶が「あいつが悪い」「あ

いつが俺を侮辱している」「俺はなんてどうしようもないのだ

ろ」などなどと思っています・・

記憶が自分や世界を自分とは別の対象として知覚しているので

あります・・。とそのように覚者は言っているのでありましょ

う。


戦争や災害やテロで多くの人が死んだり、殺されたり、殺し

たりしているように見えていることも、聖者の目には、その

特定の有機体(肉体)に宿っている霊魂が見えているので

「誰も殺されることはないし、死ぬことはない」と。

「誰も人を殺したりはしていないし、殺すことは出来ない」

とそのように言われるのであります。


そしてそれゆえに、殺そうとしたりすることの愚かさを、

戦争の愚かさを説いておられるのであります。



イエスは言います。

神は愛である、愛が神であると。一切は神であると。

それ故に

一切万物を愛し、一切万物に感謝せよと。


では一切万物とは何か?

それは命あるものも命なきものも一切万物でありましょう。

家も会社も冷蔵庫も椅子も全ての物質も国も地球も・・。


あらゆる起こっている事、それはカルマに従って起きている

ことでありましょう。起きている事に偶然はなく必然である

事でありましょう。


それは成功と失敗、良きことと良くないこと、敵と味方。

健康と病、誕生と死亡。繁栄と欠乏、飢餓と飽食。天国と

地獄、希望と絶望などなど。


内面にあってはイライラと自尊心、愛のなさ、無関心、支配欲

悲しみと苦しみ、傲慢、暴力と焦燥心、競争心、あらゆる思考

あらゆる感情、エゴ、そしてそれを観察している私自身。


聖者は言います。それらに感謝と愛を積極的に与えなさいと。


汝の敵を愛しなさいと。汝の敵である私自身を愛しなさいと。


思考と感情と欲望と知覚に愛を与えなさいと。

上着を盗る者には下着をも与えなさいと。


私の最大の敵である私に愛と感謝を与えなさい。と

私の最大の敵である思考と感情に愛と感謝を捧げなさい。と

・・・是がキリストの教えでありましょう。