ンタルの総計以外の何ものでもなく
それらのエレメンタルが私達の形体を帯びていること
が分かるでしょう。
しかし私達は自分に責任があります。なぜなら現在
のパーソナリティーの特定の気づきのレベルと引き
つけ合うような、それと同調するような
エレメンタルを取り入れているからです。
・・・エレブナ
私の感想
この文章はエレブナを読み慣れていない人にとっては非常に難解と思われて
しまうことでありましょう。
ここでエレブナが言っていることとは次のようなことでありましょう。
私達は自分が思考して話して聞いて行為していると思っていますが
果たしてそうなのでありましょうか?
私達のその思考や感情や願望は、私達の潜在意識にあって活動して
いる記憶の反応なのである・・と言うのです。
その記憶は私達の潜在意識に滞留しているために、私達はその
記憶の反応を自分自身の反応だと勘違いしてしまっているので
すと。
私達は私達の思考体や感情体が未だ充分には形成されていない
ので私達としての本来の思考や感情を使う事が出来ない状況に
あるというのです。
従って現在の思考や感情や行為とは私達自身の思考や感情や
行為なのではなくて、私達の潜在意識に滞留しているエレメン
タル(記憶)の思考や感情、行為であり、そのエレメンタル
(記憶)が見て感じて話して行為しているのだということな
のであります。
・・・これは非常に理解し難いことですが・・・。
この文章を書いている私も、この文章を読んでおられる貴方も
本来の私(鏡の私)ではなくてエレメンタルなのですと。
この私達の反応とは記憶の反応即ち自我の反応なのですと。
私達が自分の思考や感情と思っているものはエレメンタル(記憶)の
反応なのです。
私達の思考体と感情体即ちサイコノエティック体は未だ未形成なので
私達は正しい思考や正しい感情を使用することができていないのです。
(神道で言う四魂が未形成であるので正しい思考が出来ないと言うこと)
そういうことなので
私達が自分自身だと思っているこの私とは魂と繋がる私ではなく、また
その魂と繋がる私が使用している思考体や感情体即ちサイコノエティッ
ク体でもなくて、その意識(鏡)を覆い隠している記憶(エレメンタル)
であるということです。
私達が自分の思考や感情や行為だと確信している私とは記憶すなわち
エレメンタルの反応だということです。
そのエレメンタルとは条件付けられている頭脳で受信した分離思考の
記憶であり
肉体に入り条件付けられている脳と結合した私達は
その分離思考の記憶と完全に一体化してしまっているのがこの私達
即ち、このほぼ眠ってしまっている私即ち魂と繋がる私である
と言うことなのであります。
私達は黒住宗忠のいう天照大御神の御分心であり、鏡なのですが、
現在は完全に記憶に被われている「眠っている神の子」なのであ
りましょう。
私達はどうしてもこのエレメンタルの思考と感情を
自分自身の思考や感情だと錯覚してしまうのです。
何故ならば
私達(鏡)は記憶に包まれており、思考体や感情体は殆ど
形成されていないのです、所謂、神道でいうところの四魂が機能
していないからです。
日常生活での私達の思考や感情や行為とは私達の思考や感情や行為
(サイコノエティック体・またはアストラル体、メンタル体
によるもの)なのではなくて、
条件付けられた脳が受信した私という観念の分離思考であり、
私達が自分自身だと実感しているこの私とは、本当の
私ではなくて、これらの記憶であるエレメンタル(想念形態)
であり、そのエレメンタルが自分自身を内部と外部世界に投
影してそれらを知覚していると言うことなのであります。
このエレメンタル・記憶が脳を占有して五感を知覚し、
思考感情として反応しているわけです。
記憶が自分自身を世界に投影して、自分自身の姿・・それら
である競争と殺戮、苦しみと悲痛、絶望を見ている訳です。
私達は私達の思考体と感情体が形成されておりませんので、
私達は正しい本来の思考や感情を使用することが出来ずに
記憶に支配され眠った様な状態で毎日を生活し、記憶の為す
ままに、感じ、思い、願い、欲し、見て、支配され競争し、
記憶と一体化して暮らしています。
というのも私達である鏡(意識)が分離の観念(エレメ
ンタル・記憶)で包まれ覆われ混濁しているからです。
鏡には天照御祖神を映すのではなく、分離の観念を映している
のであります。
そして自分自身を記憶の反応と一体化し続け、記憶の知覚認識を
自分自身の知覚認識だと信じ込んでしまい、決して何ら疑
うことなく幾多の輪廻を繰り返しています。
その記憶は自分自身を決して自己観察しません。従って
私達という鏡は記憶を映しているだけです。
私達は脳で受信した私という観念の分離思考を自分の思考だと
思い違いし、その記憶の反応である低次思考と一体化してしまい
記憶がするように思い感じ行為してしまうことによって、カル
マを積み上げてしまっているのです。
それは私達がそれらの低次思考のエレメンタルを創り出している
と言うことなのであります。
従ってそのエレメンタルは私の責任なのです。
何故ならこの私は私が産み出したからです。
この私は私の責任なのです。
私達が自分自身の意識だと思っている意識とは意識で
はなくて記憶に過ぎず
私達が肉体と結合した結果として、一体化してしまった
私達が産み出したエレメンタルの反応なのです・・。
しかしながら本来は私達は魂と繋がる私(鏡)であり
私達のサイコノエティック体は形成されていないのですが
記憶を浄化してサイコノエティック体を再形成することが
可能なのです。