自己への愛がなければ、如何なる愛も
不可能である‥ミルダッド
私の感想
自己とは夫々の各自の霊的進化の段階によって異なっ
ている。
私達が私と言うときその私とは夫々の霊的進化によって
全く異なっている。
通常では自己・私とは五感と思考の記憶のことであり、
その五感と思考は条件付けられた脳が受けとった「観念」
による知覚認識の記憶の反応のことであり、
その知覚は現在の人類の段階における条件付けられ
制約された脳による真実であっても高次の知覚に
とっては全く以て真実の知覚とは言えない。
高次の知覚とは、高次の脳による知覚でもある。
その高次の知覚とは、本来の肉体の脳の機能でもある。
成長した霊的諸体の高次の知覚によって肉体と脳も高次
となる・・本来の荒身魂へと成長する。
・・・諸体の再成長に伴って、同じように肉体
も脳も高次の脳、高次の肉体へと再成長するのである。
現況での人類のこの機能が制限されている脳に
よる知覚ではない高次の知覚にとっては、現時点で
の人類の脳の知覚とは全く以て真実の知覚ではない。
それは天動説が真実ではないのと同じである。
それはこの現在の人類の条件付けられている脳が
成長して本来の脳の機能を発揮したときに明らかに
なることだろう。
私が世界を見ているのではなくて、条件付けられて
「私という観念」に占領されている脳が世界を見て
いるのである。私が見ている世界とは脳を占有している
記憶が見ている「その記憶の世界」なのである。
この世界とは内も外も、その脳の中の記憶の世界な
のである。
だから
私の中に、肉体の中に、心臓の中に、脳の中に大生
命が生きておられるのではなくて
大生命の中に、心臓があり、肉体があり、脳があり
生死があり、私もいて、人々もいて、世界もある。
大生命が生きておられるので、心臓があり、脳が
あり、肉体もあり、そして私がいて生死がある。
大生命の中に私やあなたがいる。
私の中に愛があるのではなくて、愛の中に私がいる。
そして、それが「見るものは見られるものである」
である。愛こそが神であり、愛とは自他がひとつで
あることであり、自他が一つとは、主体と客体・対象
は一体であることであり、主体と対象が一つとは即ち
「見るものは見られるものである」なのである。
それこそ「観察者は観察されるものである」なのである。