思考なく見よ・・・クリシュナムルティー
クリシュナムルティーは誰に対して「思考なく見よ」と言っているのですか?
⇒■それは勿論、思考で見てしまっている者である私達に対してであり
ます。
私達とは意識の面からは「思考」と「思考ではない透明なる意識」
から成り立っている存在であり、本来は「記憶である思考によって濁
ってしまっているけれども・・鏡」であるから「記憶なく見なさい」
と言われ続けているのであります。
それ故に
クリシュナムルティーは「人類は思考から解放されなければならな
いのである」と仰っておられるのです。
「思考なく見よ」と仰っておられるのです。
■もし、私達が思考だけの存在であるならば、クリシュナムルティーは
私達に対して「思考なく見なさい」とは言わなかったはずであります。
思考にそのように「思考なくみなさい」と言ったところで思考には
思考なく見ることは、もともと不可能であるからでありますから・・。
■実はこの見ると言うこと自体が非常に大切なのであり、黒住宗忠のいう
「人の心という鏡に映る自己の姿を見なさい」と全く同じであります。
思考によって混濁してしまっている自己の姿を見なさいと言っておられます。
思考を思考と見ること、
思考が見る者と見られるものであること
その見る者とその見る者によって見られている対象とは思考であること。
そのことの本当の理解が思考からの解放の条件となるので
ありましょう。「私達は見ていないのである・・ということを見るこ
と」が求められているのであります。
■思考なく見ているもの・・・即ち思考ではなく霊魂である観照者に対
しては「思考なく見よ」とは決していわないことでありましょう。
何故ならば、観照者それは、既に思考なく見ているのですから思考なく
見なさいとは決して言う必要がそもそもありませんから。
ですからクリシュナムルティーは思考によって混濁して汚染されている
私達に。「本来清浄なる意識」に対して「思考なく見よ」と語りかけてい
るのであります。私達は記憶によって穢れているのです。その記憶とい
うサングラスで自分と世界を見てしまっているのです。
私達が見て、感じて、思って、記憶していることは記憶なのです。
私達は記憶によって、その思考によって自由を奪われているのです。
先ずはじめにそのことを理解する必要がありましょう。
私達は「思考なく見よ」と言われても、また私達は思考によって混濁し
ている本来清浄なる鏡です‥と言われても私達は思考しか知りませんので、
私達にはどうすることも出来ないのでどうしたら良いのでしょうか?
⇒■クリシュナムルティーは「思考なく見る」こととは、恩寵によって
起こる事、やってくることである。それは記憶が行うことではなく
起こる事なのであり、記憶に占領されている限り「なる」「す
る」という思考=自我による行為によってではないといいます。
それは記憶である思考には不可能であり、出来ない事であると言っ
ております。
その「思考なく見ること」それは私達、思考によって被われてい
る私達から思考が清まる事。
「思考から解放されること」。
それらは恩寵によるのであり、記憶・思考からの解放とは恩寵によって
齎されることであると言っております。
ではその「思考からの解放」という恩寵が齎されるためにはどのように
したら宜しいのでしょうか?
⇒■その私達が思考から解放され浄化されるための方法は色々とある
事でありましょう。が、全てはそれは恩寵によってでしか齎されま
せん。自我がある限り、この自他の分離という実感と感覚という
記憶・思考による知覚がある限りは、解放は在りません。
世界の真剣で純粋な求道者のためには、瞑想による方法、祈りの方法
唱名を唱える方法、奉仕業による方法、御祓などの方法などなど
地球上には色々とあり、自分に合った方法を進むのが宜しいかと
思われます。
その自己(記憶)からの解放のための方法は色々とある事は分かりま
したが、
何故、クリシュナムルティーは「思考なくあるがままを見よ」とそのこ
とだけを言い続けたのでしょうか?
⇒■それは黒住宗忠や他の正しい道を示す真剣な教えやスクールでも
全く同じですが、「見ることが解放のために必須条件」、この「
自己観察」が全ての流派で同じの大基本だからです。
「正しく見ること」そのものが「記憶・思考である見られるもの・
見ているもの」からの自由、解放のために必要だからであります。
「ただただ見ること」そのものが見られるものに変化を与えるか
らです。
(量子力学からも同じ事が証明されております)
■正しく見ること、その見ることが記憶という自己からの解放の必須
条件なのです。「見ること」とは、「ただただ見ること」であり、
ああだこうだと思索を色々と重ねたり考えたりすることではありま
せん。ただ見ること、ただただ「私達は見ていないこと」、実際に
は「私達は思考でしか見ていない」、「私達が見ているとい
っているのは私達が見ているのではなくて、それは記憶の反応で
しかない思考が見ているのであり、それは即ち見ていないことである」。
「思考が機械的にコンピュータのように自動的に反応しているのだ」
ということを見ることが「正しく見る」ということであります。
その「私達は正しく見ていないという現実、私達は極度の色眼鏡で
内部と世界を見ているということを見ること」。
即ち「思考なく見てはいないということを見ること」が解放のために
最重要なのであり。その現実を見ることこそが数多くある
正しい道での共通の最初の第一歩なのであるということなので
あります。
分かりました!!「私は記憶でしか見ていない・・」ということをハ
ッキリと正しく見ることが記憶からの解放の第一歩だと言うのですね?
⇒■私・久保栄治はそれを実践していないのでなんとも言えませんが、
しかし私に言えることは、クリシュナムルティーの「思考なく見よ」
との教えは、言葉を換えて言えば
「私達は本来は記憶ではないのに悲しいかな記憶でしか見ていないのだ」・・
ということをハッキリと見なさいということ。
そしてその「私達は思考なく見てはいない!!思考が全てを見ている」
「私達は思考によって混濁していて、思考と言う色眼鏡で全てを見て
いるのに、自分が見ていると錯覚している」ということを見なさい
ということ。
このあるがままの自己への自己観察が思考からの解放、既知なる
この思考からの自由へと繋がっていくのです・・・と言っておら
れるように感じられるのです。
この「私達は正しく見ていない。私達は思考なく見てはいない。
いま私達が見ているのは記憶が見ている世界だ。この知覚とは私達では
ない記憶が見ている記憶の知覚なのだ」という正しい自己観察が絶え
ず求められているのであります。