神は愛なり  聖書ヨハネ伝

 

愛なくば全ては虚し  聖書パウロ使徒行伝

 

上着をとる者には下着を与えよ

右の頬を打つ者には左の頬を差し出せ 聖書ルカ伝

 

汝の敵を愛せよ 聖書マタイ伝

 

 

あなた方が生きているのは、愛することを学ぶため

あなた方が愛するのは生きることを学ぶため

人間には他の如何なる授業も必要ない

そして愛することとはなんだろうか

愛する者が、愛する相手に永遠に吸収

されて、二者が一体となるのでなければ

 

ミルダッド

 

 

 

私の感想

 

この聖書の言葉を理解して、実践できる者はキリストと同じ

レベルでなければ出来ない事でありましょう。

当然のことですが、私達はこの言葉を情報として記憶するこ

とは出来ても、それを実践することは出来ない事であります。

・・・なぜなら私達は記憶から解放されておらず、私達か

「エゴ・わたし・記憶の反応」が祓われていないからであ

ります。自分は肉体で時空のある地点を占めている存在であ

る・・とその様に五感の認識と同一化しているからであります。


私達人類の全てが「エゴ・わたし・記憶の反応」と一体化し

ていて自己利益と自己保存、自己完成、自己の幸せを求めて

いるので私を忘れてしまっています。

そして自己を忘れていると言うことを知ることもあり

ません。自己を知るためには自己が浄まらなくてはならない

ということを知ることもありません。私達は私を知りません。

私が養われ、成長していないからです。逆に言えば私達はこ

の自分の状況に対して自分に責任があります。何故ならば私

達は魂と繋がる私であって、記憶ではないからなのです。

自分ではないものと同一化してしまっているからです。

私達は記憶と堅く一体化し混合して浄まっていないのです。

私達は自分を養い、自分から思考を取り去り、自分を成長さ

せる必要があるからです。私達は記憶ではなく、思考ではな

く、魂と繋がる私であることを知らなければならないからですと。

 

 

さて私とはこの記憶の反応だけで成り立っているのではなく

て、自分・私とは三つの私で構成されていると教えられてお

ります。

 

一つ目は、この現在意識を占領している私だと思われている

「記憶の反応である私」、低次思考の私です。それは実際には私で

はない「私を詐称している記憶」です。私達がとてもよく知

っているこの現在意識のほとんどを占めている私の事です。

人類の全ての人々の意識の状態とはこの記憶の反応であり、

記憶の反応である低次思考によって汚染されています。

この私達が自分の意識だと誰もが思っている意識とは条件

付けられている脳が産み出している記憶であり、その記憶は

脳が眠るときに一緒に眠ってしまいます・・・何故なら

その意識は脳を媒体にして組成されている意識即ち思考だか

らです。現在意識はこの記憶と混ざり合っていて殆ど真っ黒い

泥水のようであります。そしてそのことに全く気がついてお

りません。

 

二つ目は、この記憶という「我の心である記憶」と一体化し

てしまっている私、泥水の状態なのであるが本来は「人の心」

である私。輪廻転生している私。永遠の原子、コーザル体の私。

本来は神の子ではあるが迷ってしまっている私。黒住宗忠のいう

天照大御神の御分心だが成長していない私。その私の四魂・サイコノ

エティック体が未形成であっても「魂と繋がる私」であり、この

私が生まれ変わり転生している私のこと。成長過程の私。本来は清ま

っている心なのだが目覚めていない私。高次思考の私。成長す

れば心を使用することが出来る私です。しかし殆ど成長して

いないので頭脳が眠るときに一緒に眠ってしまい、意識がなく

なくなってしまうのですが、それはこのサイコノエティック体

が未熟で未形成の故です。現在の私達は未発達のためにこの諸

体の目が開かれてなく、この条件付けられている頭脳の思考しか

知らないのですと。

この二番目の私という意識即ち魂と繋がる私の意識は「観察者は

観察される者である」という言葉を理解したときに顕れると言

われております。そしてその時、意識は思考から解放されて

脳が眠ってしまうときにも、意識は眠ることはないことであり

ましょう。かく言う私も夜は眠っています・・それはこの「

魂と繋がる私」のサイコノエティック体・諸体が再形成され

ていないこと即ち私は覚醒しておらず眠っていることを証明

しております。


 

三つ目は天の心である本当の私、魂の私。未知なる私。私を

観照している私の事であります。この未知なる私の事は、久

保栄治は未熟なので全く知りません。この自我の死を経る

ことで顕現すると言われている「魂の私」の意識の事は

何も話すことは出来ません。


 

 

ではキリストが言う「汝の敵を愛せよ」という愛とは何でし

ょうか?

 

⇒それはミルダッドが言うように「愛とは愛する者が、愛す

 る相手に永遠に吸収されて、二者が一体となるのである」そ

 の愛のことでありましょう。それは自他が一つになっている

 状態、私があなたである状態であり。「見るものは見られる

 ものである」である状態、それは自他に分離していない状態

 であることでありましょう。私にとってはこの知覚認識は

 遙か遙か先の状態であります。

 

 

では具体的にその私とあなたは一つである愛の状態とはどう

いう状態なのでしょうか?

 

⇒勿論、私は愛を全く知らないので愛を語ることが出来ません。

 また、同様に記憶が愛を知ることはないことでありましょう。

 私とあなたが一つである状態というのはクリシュナムルティ

 ーの言う「観察者は観察される者である」という超意識状態で

 の知覚であり、私とあなたが分離しておらず一つになった状態

 であり、それは、私はあなたである状態、・・それは即ち私が

 完全に消滅し完璧に無我の境地に至ったときに感得される超意識

 状態のことでありましょうか。

 そのとき完全に自我の終焉を迎えた聖者が言う「私が敵を見

 ているのではなくて敵を見ている私と敵が一つである状態」

 であり、その知覚は究極の悟りの状態のことでありましょう。


 それはまた、キリストの言う「汝の敵を愛せよ」を実践して

 いる状態でもあることでありましょう。それは黒住宗忠のいう

 「立ち向かう人の心は鏡なり己の姿を移してや見ん」を理解

 している状態でもあり、それは自我や憎悪や不安や恐怖を対

 象として私が見ているのではなくて、見ている私が自我であ

 り憎悪や不安や恐怖である状態、対象と主体の分離がなく溶

 け合っている状態・・アドヴァイタの言う不二一元の超意識

 状態であることでありましょう。

 ‥久保栄治にとってはこれらの言葉は「絵に描いた餅」であ

 り「豚に真珠」の知識であります。

 クリシュナムルティーのいう「私が恐怖を見ているのではな

 くて見られている恐怖が私である」とは、究極の超意識から

 の教えであり、その教えは自他の分離が全く存在していない

 ・・という人類には全く想像することが出来ない非分離の状

 態の意識による知覚からの言葉なのであります。

 そしてそれを実際に体験している中に愛が姿を顕していると

 言うことであります・・・その「見るものは見られるもので

 ある」とき、私と対象とが一つで分離していないとき、私が

 あなたであるとき、私が敵であるとき、そこに主体と対象が

 一つになっている状態即ちそこには愛が顕現しているのだと

 いうのです。・・・クリシュナムルティーは究極中の究極の

 真実を非常に簡単に日常の言語で語っております。

 そこには観察する私と観察されている対象との分離分割が

 ないのです。この究極の愛の中には自他の分離がないからなのです。

 

 

 

では、聖書でキリストの言う「汝の敵を愛しなさい」という

汝の敵とは誰のことでありましょうか? 

 

⇒それは私を覆い隠しているこの「記憶である私」のことで

 ありましょう。私は混合している記憶であり、即ち我の心です。

 自己の死を通じて無我の境地に至った方々は次の様に言います。

 「自分を相手に投影して自分を敵として知覚し、自分を憎んで

 いるのです。私が戦っている敵とは自分自身なのです。」と、

 それなのに、私は敵と私は別だと知覚しているのですと。

 その分離の知覚・・それは肉体の頭脳の知覚即ちエレメン

 タルの私、記憶の反応ある低次思考の特徴であると言われます。

 記憶である思考は常に自己を分割し、判断し、評価し善と悪に

 区別し、敵と味方を識別しています。それが潜在意識にあ

 る記憶なのですと。

 その記憶が「魂と繋がる私」を覆い隠し、私を詐称している私

 なのでありましょう。

 

 

ではここでいま考えているこの私とは誰なのでありましょうか?

 

⇒この私とは、決して記憶の反応だけなのではありません。

 この表面意識は記憶が「魂と繋がる私」と混合して出現し

 ているのですと。ある時は全く記憶だけが反応し、時々、

 たまに、魂と繋がる私の意識が表面意識に表れるのです。

 しかし記憶は私ではありません。私とは未熟であっても「魂

 と繋がる私」なのです。そして四魂が未形成なるが故に、私

 とは「魂と繋がる私」であるのに自分を知らず無知であり、そ

 の記憶である思考と一体化して思考を自分だと錯覚してい

 るのです。鏡の表面が混濁しているのです。それがこの人

 類の私達です。

 

 

ではその無知でありその記憶である私とは何であろうか?

 

⇒その記憶である私とは全人類で同一の私という観念である

 ことでありましょう。

 肉体に入った「魂と繋がる私」が自分自身だと思い違いし

 ている、条件付けられている頭脳の知覚や記憶のです。

 

 

その私という観念の記憶である私とは何か?

 

⇒その記憶である私とは、魂と繋がる私を覆い尽くしている

 我エゴの心、人の心ではない我の心、この記憶のことであ

 りましょう。苦しみと悲しみ、葛藤で不安の私、恐怖の私

 の事です。私達がよく知っているこの表面意識・鏡を覆っ

 てしまっている記憶の反応のことです。

 

 

ではその記憶の私によって覆い尽くされている私の特徴とは? 

 

⇒その私の特徴とは、即ちその未知なる「私」と繋がってい

 る私であり記憶と一体化してしまっている私です。夫々で

 進化状況や目覚めの度合いが異なっている私の事です。

 それはこの私とは「私」を被っている無知である記憶を自

 分自身だと錯覚しています。私達がこの無知から解放される

 ためには厳しい「自我の死」を経験しなければ成らないと

 教えられています。

しかしこの私とは既知である記憶の反応である私ではあり

ません。

私とは「未知なる私」本当のわたしである魂の私と繋がっ

ている人の心なのですと。愛である私と繋がっているので

すと。 

私は未熟で穢れに染まってしまっていても神の子であり、

天照大御神の御分心・人の心なのですと。

この現在の私とは、その「私」を覆い尽くしている記憶と

一体化してしまっている「魂と繋がる私」との混合です。

悲しいかな、この私は闇に被われていて「魂である私」の

ことは何も全く知らないのです。水は水でも泥水です。

この状態では「魂と繋がる私」は「魂の私」のことはなに

も知りません。

知っていること言えば、私を騙る記憶の私の事だけです。

私は「本当の私」は誰であるのか知りません。私が知って

いるのは「本当の私」ではない記憶である私・エゴとプラ

イドに満ちた私の事ばかりです

 

しかしながらこの久保栄治という記憶も「魂と繋がる私」が在

るので生きていられるのです。

けれども悲しいかなこの魂と繋がる私は未発達なので「魂

の私」のことは何も知らないのです、ですので当然、この

私には「魂の私」のことは何も話すことが出来ません。

私は「私」ではなく“記憶である私”と一体化しているので

その“記憶という私”の事は多少は知っているので話すこと

が出来ることでありましょう。

私はその未知なる「魂の私」を覆い尽くしている記憶の私

ではないのであります。未形成で未熟で記憶と一体化して

おりますが、それでも神の子なのです。

 

 

 

ではその「私」を覆い隠しているこの既知なる私、この人類

の私達であり、私達によく知られている記憶の私の特徴とは

何でしょうか?

 

⇒この記憶の私は自分自身のことを見る私と見られる私に分

 離分割し、究極の超意識による超知覚に依れば「世界と私

 は一つである」のに自分と世界を分離分割して「私は世界

 とは異なっている」と知覚認識しているのであります。

 

⇒同じく、悟った聖人の目からすれば

 相手とは自分であり、自分は相手であるのに記憶の私は相

 手を自分とは異なっていると解釈して、相手のことを常に

 非難し、相手を利用しようとしています。

 

⇒同じく究極の超意識の目からすれば

 私は、自分は万物であり、万物は自分であるのに自他を分

 離し分割して、自分とは万物とは異なっていると知覚し、

 認識しております。

 この自分は相手ではないと思い込んでいるその私とは私と

 いう観念であり、その記憶であるということでありましょう。

 

⇒その私という観念の記憶は自らを知らない無知であり、常

 になろう、至ろうとし、安定と安全を求め、自己を拡張し

 ようとしている記憶であるという事でありましょう。

 その私とこの未熟な「魂と繋がる私」が一体化してしまっ

 ているのです。

 

⇒その自らを知らない無知無明がこの記憶の私であり、この

 特定の名前の付いている個人人格であることでありましょ

 う。この個人の私とは記憶なのでありましょう。常に自己

 を意識し、自分がどう思われているのかに関心があり、プ

 ライドに満ち、不安と恐怖に満ちている暴力的な私です。

 しかしその私とは「魂の私」でもなく、「魂と繋がる私」

 なのでもありません。

 

⇒この無知無明である記憶の私とは人類で同じ未知無明なの

 に、自分とは自分以外の人は異なっている個人であると思

 い込んでおり、自分は肉体であると錯覚し、自分を肉体と

 同一化し、世界とは自分自身であるのに、それを見る者と

 みられる者とに分割して世界や自分自身や相手を対象とし

 て知覚しているというのであります。

 この記憶の私とは自他を分離し、自らも分離し、苦しみと

 悲しみと恐怖と憎しみそのものであるのでありましょう。 

 

⇒この「記憶である私」は「魂と繋がる私」や「魂である私」

 を覆い隠し、包み尽くしているわたしのことであります。

 

⇒この「記憶である私」は他者とは自分自身であるのに他者のこ

 とを自分とは異なる者として知覚認識し、自らを知らない

 無知であり、常に何かになろう至ろうとしておりますと。

 この「記憶の私」は「魂と繋がる私」を覆い尽くしている記憶であ

 るのに、自らを知らず、自分はその未知なる私、真我であ

 ると錯覚しております。更にまずいのはその嘘をついてい

 ると言うことすらも知ることがないのであります。

 

⇒この記憶である私は、内と外に起こることは全てがカルマ

 の法則によって完全完璧に起きている事であるのに、自分

 はそのことに対して、それを変えたり、対応したり、何か

 行うことが出来る自由があると錯覚しております。

 変えたり、対応したり、行うためには魂と繋がる私自分自

 身が祓われ清まっている必要があるのであると言われております。

 それなのに記憶は自分に起きることは自分の力で変えるこ

 とが出来るのだとそう思い込んでいるのであります。

 けれども、起きている事とはカルマによって正確に内と外

 に正確に起こっているのであって、この記憶の私は、その

 起こっている事に対して何もすることが出来ないと言われ

 ております。

起こっている事に対して何かをすることが出来るためには

「魂と繋がる私」が記憶から解放されていなければ成りません。

「魂と繋がる私」がこの記憶の私に包まれ被われている限り

は自由がなく、全ては起こるべくして起こっているのです。

 

⇒この「記憶である私」はその起こっている事に対して絶えず反

 応していて、その起こっている事の全てが一瞬の狂いもな

 くカルマによってこの内と外に起こっていること、即ち自

 分が招いている事であることを知らずにいるのであり、自

 分とはその起こっている事の一部である事を知らずにいま

 す。

 その起こっている事に記憶が反応して「それは何とかしな

 くてはいけない」「これは良くない!変えなくては」「恐

 ろしい」などなどの反応を繰り返しております。そして「魂

 と繋がる私」はその「記憶の私」と一体化して過ちを繰り返し、

 輪廻転生しているのです。

 

⇒この内と外の起こっている事に反応している記憶の私と一

 体化してしまっている「魂と繋がる私」を観照しているの

 が未知なる「魂の私」であるということであります。

 この未知なる「魂の私」は起こっている内部と外部に対し

 て反応することはなく、反応している記憶の私やその私と

 一体化してしまっている「魂と繋がる私」のことを観照してい

 て愛してくださり、静かに観照していてくださっている。

 のであると教えられております。

 

 

「魂と繋がるこの私」は、私ではない「記憶の私」と一体化してしま

っているので、目覚めることなく、輪廻を繰り返しているの

です。私達「魂と繋がる私」はサイコノエティック体(四魂)

を持っており記憶の私ではなくて本来は神の子である、魂の私

なのですと。