通常、私達の平均的な人生では誰しもが、想念・思いとは自分が思って
おり、考えとは勿論のことですが自分が考え、また見ているとは、自分
が見ているのであるとその様に実感しております。かく言う私もその
内の一人であります。
アドヴァイタの賢者が言うように「思考は起こっている」と言われても
自分が感じ、自分が考え、自分が生きて行為しているのだと実感して
いるのですから、賢者が言うように「想念や感情とは起こっている」
と、その様に思っている人などどこにも居ないことでありましょう
皆が皆、全員が自分が自分で考えて、自分が見て、自分が行為して
いると実感しているので
そのことを疑う人など、どこにも居ないことでありましょう。
だが、それに対してアドヴァイタの方々は
その自分が考えて、自分が感じて、自分が見て、自分が行為していると
実感している私こそが、潜在意識の記憶の反応なのであって、それらは
意識の鏡に起こっている事なのである。と言うのです。
自分が思っていると思っているその思いや考えや感じることとは
条件付けられている脳が産み出したものであって、その想念や感情と
は脳によって産み出された記憶がそのように「私が思っている」と思っ
ているのであり、それらの想念とは脳からの記憶によって起こってい
るものです、と教えておられます。
他人に褒められて喜び、プライドを傷つけられて苦しみ、情欲に翻弄
され、嫉妬心にかき回され、常に人の眼を気にし、お金や健康を心配し、
不安と恐れで一杯なのは「私」ではなくて、この記憶の反応なのですと。
私達は何ら疑うこと無く「私が思って私が感じている」と思っていますが、
その私という実感・感覚そしてまたその知覚とは「私が思っているのでは
なくて」記憶の反応なのです。と言うのであります。
それはまた別の角度から説明すれば、太陽神経叢付近にあるサイコノエテ
ィック体の潜在意識の記憶が起こしている想念であり感情であり、その記
憶の持っている感覚であるというのであります。
それ故に、この五感とは、それらは私が感じているのではなくて、脳が
感じているのであり五感とは実際には脳が起こしている脳が解釈してい
るものであるというのです。
覚者達が言うには「自分が思っている」「自分が見て、聞いて、話して、
感じている」と実感しているところの私とは、実際には「私」ではなく
て、その私とはそれは記憶の反応であり、その記憶が、そう思っている私
のことであり、その記憶が「自分が思考している」と思っているのであ
ると言っておられます。
その私だと実感している私とは記憶、即ち脳を経由して発生している想
念が蓄積した記憶なのですと。
この私とは「私」なのではなくて記憶が反応し“記憶が私”だと思ってい
る私なのですと、
この私とは記憶の実感なのでありますと言っております。
その記憶の反応である私は、常に利己的で何かになろうとし、自己の願望
の成就だけを求めているものであります。残念なことですが今のところの
この私とは、即ちその記憶であるこの私のことであり、
この私の考えとは実は太陽神経叢にある記憶が反応しているのであると
言うのであります。
そして
この既知なる私とは未知なる「本当の私」ではないというのだということ
であります。
私達の人生では記憶が日常生活で質問したり、考えたり、話したり、見た
り、行為して反応しているので実際は“記憶が支配している”のであり、そ
れが私達の人生なのです。
ですから正しくは、この思考、想念そしてこの知覚やこの感覚というの
は「私」の知覚ではなくて、それは「意識という鏡」に起こっている記
憶が感じている感覚であり、それを知覚認識しているのは潜在意識の中
にある記憶であるというのであります。
即ちこの想念や感覚や知覚とは「私」が感じ、「私」が思っているので
はなくて、「私」に起こっている脳の感覚であり、その脳が受信してい
る想念の記憶の反応であると言うのであります。
「私」が想いを起こしているのではなく、若しくは「私」が思っている
のでもなく、また「私」が見て感じているのではなくて、この私とは
「私・鏡」に起こっている“虚偽、偽物の私”であるというのです。
ですので本来の「私」とはその記憶でも無く、記憶の反応でもないと
いうのです。ただしその「私」は私にとっては未だ未知なのでありま
すし、よく考えれば分かることですが、その「鏡の私」が実在してい
るからこそ偽物の私もいられるわけであります。
私が思い、感じていると実感しているこの認識と知覚、そして私が私
だと思っているこの私、即ち私が私だと考えているこの私とは脳が受
信している観念であり、その記憶であり、それは想念自体であるとい
うのであります。
想念そのものが私であり、その想念自体が自分のことを私だと思って
います。
鏡に現れては消え去る記憶が私を偽る私の正体なのであり、「私」と
は鏡なのですと。
この限定されていて、五感しか知らない私とは想念の記憶なのであり、
この私とは「鏡である私」に起こっている想念であると言うことであ
ります。
他者を非難したり判断し評価している私とは「私」に起こっている想念
であると言うことであります。
その「私」に起こっている想念が産み出しているのが“私が思っている
と思っている私”という錯覚であり、それがこの人類で共有している錯
覚の私であります。
この私とは思考者、行為者、人格などと言われているこの自他を分離し
て見ている記憶の私のことであります。
(もしこの私が本当の「私」であるなら相手とは自分自身であるという
高次の実感がそこにはあるでしょうから)。
思考や想念とは私が思考しているのではなくてそれは「私」に起こってい
る記憶の反応であるということなのであります。
従ってこの「自分が思考している」と実感している私とは、本当には、
想念の記憶なのであり、この私は実際には記憶の反応であり、この私
とは記憶そのものであって、決して未知ではあるが「本当の私」
ではありません。
この内部と外部を見ている私とは「本当の私」である鏡に去来している
記憶・エレメンタルなのですと。
この“他者とは私とは異なっている”と知覚認識している私とは想念の記
憶なのであり、それはエレメンタルであり、人格という想念形態に過
ぎませんと。
この私は万物と一体であり、世界と一つである「本来の私」なのでは
ありませんと。
そしてその記憶の塊である人格の私が肉体や形成途中の感情体や思考
体を利用して肉体の五感を使用して見て聞いて話して、思って感じて、
そして行為している私であるのですと。
即ちこの「私」の前に現れている人格の私とは、実は非実在であり肉
体と思考体と感情体を使用している想念の記憶に過ぎません。それは
エレメンタルに過ぎません。エレメンタルが自分を私だと言っている
のですと。
それは非実在であり、その私とは本当には存在しておりませんし、
「私」ではありません、本当の「私」とは万物であるからですと。
が、しかし魂からの「鏡である私」が私達はいまだに未発達のために
「私」は覚醒しておらず、「私」はこの人格という記憶と自己同一化
してしまっているのです。と教えられております。
この私、記憶であり、その記憶が私であると思っているこの私とは、実
際には記憶なので眼がありません。
それなので肉体無しには見ることが出来ません、眼が無いからです。
肉体の眼を使っておりますが記憶には眼が無く、従って見ることが
できないのです。
しかも本来の「私」である私達はと言えば、本来は神の子になる可能性
を有していますが、未だにサイコノエティック体が形成されていないの
で、この肉体の目がなければ見ることはないのです、
残念ながら私達は目が開いていないので盲目と同じなのです。
私達が未発達なので目が開いていないので、肉体の目の機能が喪失した
場合にはなにも見ることが出来ないというわけです。脳の機能に左右
されてしまっているのです。
これを書いている私もこの文章を読んでおられるあなたも、諸身体即ち
サイコノエティック体が未熟な故にサイコノエティック体の目が開い
ておらず、肉体の視神経と眼球を使用していて、脳と一体化している
だけなのであり、自分では自分が見ていると思っていても、本当は何も
見えず、何も高次の思考を使用することすら出来ず、只々、条件付け
られている脳が見ている限定されている世界だけを知覚し、その上に
重さなった記憶の反応だけを知覚し、その記憶が見ている世界を世界
であるとそのように思い込んで見ているのです。悲しいかなこれが現
在のコーザル原子と繋がっている「私」の姿です。
この「私」を覆っているエレメンタルの私、記憶の私が「私」から取り
祓われて、「私」が清まり本来の目が覚醒したとき、この高次のサイ
コノエティック体の目にはあるがままが映っており、あるがままと
いう分離していない実相世界があることでありましょう。
それは記憶という悲しみと苦しみと恐怖や不安が除去された状況即ち
それは自他の分離が無く、万物と一体になった私、それは愛であるこ
とでありましょう、この再形成されたサイコノエティック体の目
には他者との分離や、私と世界の分離は最早無く、全てが一つである実
相がハッキリと見えていることでありましょう。
条件づけられている脳が受信している私という観念とは即ち怒りであ
り、悲しみであり、苦しみそのもの、プライドと自己関心そして成ろ
うする恐怖と不安そのものであることでありましょう。
記憶の私、世界や万物と分離している私が祓われ解消され、いなくな
ったときに元々ある「私」がそこに姿を顕している。と教えておられ
ます。その「私」とは愛であると言われております。
そしてその時私達は肉眼では無くて高次の再形成された諸体の超五感
を使って分離していない私や世界を見ることが出来るのでありましょう。