私の感想
グルジェフは言う
自己を観察するとき、同時に自己想起を行いなさい。
絶えず自己を思い起こしなさい。
常に私は神の子であることを思い起こし、決して忘れないようにしなさい。
あなたがみている一切万物の全てが一つであり、一切万物の中にあなたがいて
あなたの中に一切万物がいることを決して忘れないようにしなさい。
あなたは愛である。
あなたは記憶ではなく、人格・個人でもなくエゴ・思考でもない。
あなたを人格や個人という我の心と同一化したりせずに
私は神の子である、私は一切全てを愛している、とそれを常に想起しなさい。と
そして自己ではない記憶・思考を私・自己ではないとハッキリ宣言しなさい。
私は記憶ではなく、我の心ではなく天照大御神の御分心であることを思い起こしなさい。
私とは私の潜在意識にある記憶・記憶の反応ではなく神の子であると宣言しなさい。
私は記憶ではなく神の子であり、一切万物と一つであることを思い起こしなさい。
と
私達は私という観念の記憶に包まれ被われて、その記憶を自分だと信じ知覚して
いるが私は一霊四魂であり、私は天照大御神の御分心、神の子なのであると、
「私は万物と一つである」「私は神の子である」と・・このことを堅く信じなさい。
このことを深く信じて常に「全ての一切を愛しています」と唱え、絶えず一切万
物に愛と感謝を捧げなさい!!
私は記憶ではなく、思考や感情や行為や知覚ではなく、私は思考なく観ている
意識であり、私は一切万物と一つであり、決して一切万物と分離していないと
心に刻みなさい。
私は神の子である。私は愛であると固く信じなさい。と
何故ならば、あなたは我の心ではなくて本当に神の子であるのだから。と
※これら上記の考えに対して次の反論が寄せられている・・・それは「私は
神の子である」と思っているのは思考なのではないのか、即ちそう思って
いる私とは記憶であり・記憶とは神の子ではないのではないのか?
と言うことである。それは自己矛盾しており、嘘をついていることになり
やしないか?と
それに対しては
「思考と思考を支えている意識とは混濁しており、思考と意識を「ここ
までが記憶であり、ここからが意識である」。とハッキリと線引きを
することは出来ない。何故なら思考とは意識があるから意識されていて
意識という神聖なる鏡なしには思考そのものが存在出来ないからである。
キリストが聖書の中で述べているように「畑の中の雑草の芽と、良い麦
の芽は一緒に育つのである。充分に育つまではそれを判別することは出
来ないのである」ということである。
混濁している状態の中での正しく思考することとは、それはたとえ思考で
あってもそれは同時に思考に愛を注ぐことであり、思考の自己否定へと、
思考の浄化へとつながり、その思考の浄化を通じて神の子の私の意識が
徐々に顕在化されいくであろうから、これは正しい方法なのである。