「口に入るものは人を汚さず、口から出るものが人を汚すなり」・・・イエスキリスト
私の感想
「口に入るものは人を汚さず、口から出るものが人を汚すなり」というキリストの言葉があります。
これは食べ物のことではなくて、私たちの正しい行いと正しい思いと、「正しい意識」のあり方をしめしたものです。ここで言う「口に入るもの」というのは比喩であり食物のことではありません。
通常の常識では「口から出るもの」とは私達からの想念や感情や行為のことを指していると思われておりますが、それらは私達である意識の器に若しくは鏡、意識の座に去来し起こっているものであります。ですからキリストは、ここでその私たちの意識の座に起こっている思考や感情のことを「口に入るもの」と表現したのです。「口に入るもの」とは私達の内面で起こっている感情や思考の事であります。というのも、それらは意識の座「鏡」に顕れる記憶からの想念であるからであります。
ですから、ここで注意していただきたいのは、「口から出でるもの」とはこの記憶に対しての私達の「意識のあり方・態度」のことであり、意識の鏡に起こってくる記憶からの想念・思考=記憶の反応のことではありません。記憶・・それらは「口に入るもの」であります。
ここで言う私たちのあり方というのは「プログラムによって既に決定されて起こってきている記憶の反応として行いや思考」のことではなくて、それらの記憶の反応に対しての私達としての正しい行為と正しい思考のあり方のことであります。私達の思考体、感情体としての正しい思考と行為のことであります。
行為には記憶思考からの行為と、意識からの行為があり、同じく思考にも記憶からの思考と意識からの思考が有るわけです。
・・・通常は、私達はこの記憶の反応と完全に一体化しているので、この記憶の反応に対する正しい思考や行為ということに関しては全く考えることすらしておりません。常に記憶と同一化して記憶の反応に流されています。記憶の反応しか知らないからです。殆どが記憶からの思考なのです。
通常での人生で私達が思うこと、見ること、聴くこと、行うこととは、記憶が起こしており、それに対して私達である意識は記憶と同一化していて、その記憶が行う通りに行ってしまっています。・・・このことに私達が気がつくことは高次の知覚が在る人以外には普通は気がつくことはありません。かく言う私久保栄治も人々と同じで全く気がついておりません。
私達は思考が選択した後に選択し、記憶が感じた後に同じように感じ、記憶が行った後に行うのですと。そしてそれなのに自分が決定し行為したと実感してしまうわけです。ここで言う記憶とは条件付けられている脳を通じて産み出されている「私という観念」の記憶の事であります。
ですから、聖書では、この記憶と同一化してしまうのではなくて、この思考・記憶に対しての態度、即ち記憶に対しての私達意識・心のありようが非常に重要であると言うことをキリストは教えておられるのであります。それが「口から出るもの」でありましょう。
これが即ち仏教で言う八正道、正しい思考と正しい行為の実践のことであります。
・・・しかしながら、これは、通常は私達は記憶と完全に一体化してしまっているのでこの記憶と一体化していることをこのように思ったりすることはけっしてありません。私達が思うこと願うことすることは既に記憶に支配されているのであり、そのことに気がついていないと言うのです。
私達は一生涯を通じて、高次の知覚が発生しないので、思考や行為のことを意識の座に起こっている記憶の反応のことだとして実感することはありません。
このように私達は記憶によって起こっている思考や行為に私達が巻き込まれてしまっていることに気がついていないのでありますが、私達は意識なのであり、記憶ではない私達の意識のあり方の重要性をキリストは述べているのです。記憶ではない私達の意識とは神道で言う形成中の奇身魂(思考体)、幸身魂(感情体)のことであります。
ラマナ・マハリシなどを学んでいる方々は、このような意志的行為などと言うと、行為とは私達には記憶の反応としての行為だけがあるのであって、思考と行為・・それは記憶の条件付けの反応に過ぎないのに・・一体何を久保栄治は言っているのであろうかと呆れる事でありましょう。しかしそれはラマナ・マハリシの表面的な淺読みです。
“私達に於いては思考や行為というのは記憶によって起こっているのだから・・・・、私達には自由は全くないのであると”彼らはそう思っております。・・・それが私達の状態だと思い込んでしまっています。しかし私達にはその記憶に対しての態度を選択し変更できる自由があるのです。私達にはマインドが、霊的諸体、四魂があるからです。
もし私達の思考と行為の全てがその記憶の反応だけであるのならば、私達が存在している理由がなくなってしまいます。
それは、もしこの世界の全てが記憶の反応という機械的条件反応だけであるのならば、私達が創造された理由がなくなってしまうということであります。
たとえ全人類が記憶の反応と一体化していても私達は記憶ではなくて意識であり、一霊四魂なのであります。ここに、この私達の自由の基盤があり、その成長発展、それこそが私達が創られた理由であるからです。
さて、そもそも「記憶の反応が私たちに起こっているのだ」という知覚というものは、「記憶のことを記憶だと見ている(虚偽を虚偽と見ている)」という正しい高次の知覚なのであます。
通常の人々の「自分の人生だから自分の思うように生きているのだ」「私の考えだ」「わたしの肉体だ」「私は死んだら終わりだ」とそう単純に考えておられる方々には、記憶の反応が行為と思考を支配しているなどと言う考えは全く思ったこともないことでありましょう。
まして私達とは一霊四魂で成り立っている等と言えば、それは狂人の戯言に思えるでありましょう。「それは単におまえの信仰だ」「あるならば証明して見せて下さいよ」と。
しかしながら事実は記憶が私達の魂を覆い包んでいるのですと。その記憶が私達を支配しているのだと・・
このことの知覚というのは、その知覚そのものが、「虚偽を虚偽と見ている」正しい知覚なのであり、その正しい知覚とは記憶の反応ではない高次の意識から生じているということなのであります。
さて、ここで先ず、はじめにハッキリとさせなければならない重要なことがあります
通常世間一般常識では、私達は自分の自由意志で意志し、自分が考え、自分が質問し、自分が思い、自分が感じて、自分が行為していると実感しているのですが、それらは、実は私達の潜在意識の中にある記憶が行っているのであり、それらの思考と感情とは私達である「意識の鏡」に表れている記憶の反応であり、それらが私達自身の思考や感情や欲望だということになってしまっているものであります。それらとは聖書でキリストが言う口に入るもの(思考・感情・行為)であると言うことであります。
それはまた観点を変えればその記憶そのものが「私・自己・自我」という思考のことであり、その記憶とは即ちこの現在意識である「この人格の私」、即ちこの私のことでもあります。
この記憶の私自身が表面意識で意識され、意識の座の全てを被っている限りは私達には自由はないのだと聖者は言われます。
ここでいう、この私とはキリストが言う私達の「口に入るもの」というものであり、この私の実体とは私たちの意識の座で知覚されている記憶の思考と感情のことであります。
それらはカルマから、またはDNAから正確に起こっていて鏡(意識)に映っているものであり、それらは「意識の座」(意識)に記憶から投影されているもの(口に入るもの)でありましょう。
畢竟、それら記憶の思考や感情や行為とは脳の条件付けからのものでありましょう。それら記憶とは既に決定されているものであり自由がないものであります。
そして現在の地球人類とはそれらの記憶からの思考や行為、即ちそれが私という人格の私のことですが、その記憶の私に私達、未知ではあるが「魂と繋がる私」は、その記憶と同一視し、一体化しているので「魂と繋がる私」は記憶の人格が行うように行ってしまっているというのです。
ここは非常に複雑です。
・・・それをキリストは私達の「私の口から出るものが私を穢す」、と言っておられるのであります。
その記憶のことをエレブナでは「魂からの私」が同一視してしまっている記憶の私・人格の私だと言っておられるのでありますし、キリストはその人格の私のことを「唖と聾」だといっているのでありましょう。
この人格の私こそがミルダッドが言う神の子の私を覆い隠している私のことでありましょう。
それに対して霊的諸体からの正しい思考と正しい行為が求められているわけです。
このことを再度復習しますと
通常、私達「魂と繋がる私」の思考体や感情体が未だ未熟なので、正しい思考と正しい行為をすることは殆どなく、その反対にこの記憶の反応、脳の条件付けの結果であるこの記憶のことを自分自身であると信じているのであります。
私達は記憶(人格)が思うように自分も思ってしまい、同じく記憶(人格)と同一化しているので記憶が感じているように感じ、考え、決断し、行為しているのに、自分が感じて、自分が考えて、自分が決断して自分が行為しているのだと「魂と繋がる私」は記憶と同じように思い、そして記憶と同じように行ってしまっています。
が、その思考や行為とは実は私たちの意識(鏡)の表面に起こっている記憶(人格)の反応であり、キリストはこれらの記憶の反応のことを「口に入るもの」と言われております、それは決して口にする食物なのではありません。
キリストはその記憶の反応に対しての私達(魂と繋がる私)の意識のあり方や行為のことを「口から出でるもの」と言っているのであります。霊的諸体による正しい思考と正しい行為が厳しく求められているのであります。
私達の人格とは私達の潜在意識にある記憶のことであり、それがこの現在意識を「占有している私」の事であります。しかしこの私とは、真実に於いては私達自身なのではなくて想念形態、それは即ち「魂と繋がる私達」が誤って記憶と同一化したことで私達が創り出したエレメンタルだといわれております。
私達は毎日の日々の生活の中で通常は、何ら疑問を抱くことなく、私達はこれらの記憶の反応と完全に同一化してしまっております。
同一化してしまっていると言うことに気がつくことはありません。
そして記憶が自分は自分だと信じて生きています。
その様にして魂からの私達は決して目覚めることなく輪廻の中を生きているのですと。
従って通常の私達の思考や行為とは(口から出るものとは)、私達が一体化してしまった記憶の思考と行為だけでありますし、それはまさしく自我エゴであり、悪臭と穢れと恐れと希望と絶望、善悪の判断で一杯なのであります。
私達の意識を占有しているものとはこの記憶であり、人格であり、相手とは私なのに相手を非難し、決して相手とは私であることを知らない自我なのです。
そういうことで、私達の現況はといえば、私達は全く記憶と一体化してしまっているので、そのこと自体に、全く気がついておりません。私達の現在意識は記憶に殆ど全くと言っていいほど占領されているからです。私達が考え、感じ、行い、願い、思う事の全ては記憶が行っており、私達は記憶に占領されているのです。
それは私達の意識(神道での四魂・霊的諸身体)そのものが未開発・未形成で幼稚であるからで、正しく思考し、正しく行為することが出来ないのですと言われております。
では、正しい思考と、正しい感情と、正しい行為とは何でありましょうか?
それは記憶と同一化しないことであります。
では記憶と同一化しないとは何でありましょうか?
それは記憶がそのまま私達の思考と感情と行為となってしまっているので
記憶に対して否定的に接近する事で魂を肯定し進んでいくのです。
真理に近づく方法は否定的接近、若しくは否定的肯定とこれはよばれています。
魂の私ではない記憶を浄化し否定する事によって真の私を肯定し養うのです。
これが神道の道、そして正しい宗教の道です。この真の私を露わにするために
真の私ではないものを否定することを強調するのが禅宗なのです。
何もしない。良い事も悪いことも全てを感謝してうけいれること。
何にも求めない。自分以外の人の利益だけを求める。
何も願わない。神の愛を全てにあたえ相手の幸せだけを熱願すること。
何にもなろうとしない。既に全てが完全完璧であることを観ること。
何も欲しない。起こる事は既に起こっている事であることを観ること。
何処にも行かない。いまここにある。何処にも動かないこと。
何も考えない。ただ観る。ただ観ること。
何も思わない。ただ在る。
何も望まない。全ての人の解脱を願う。
何も努力しない。努力しないように努力する。
ただただそれらの記憶の行う、「成る」「する」に同一化しないで
いまここに実在すること。
それは「あるがままにただ在ること」だと教えられております。
「する」「なる」とは、「聖なるマーヤ」それ自体の特徴なのでありましょう。光が光と認識される為には闇がなければ認識されません。愛が在るのは二元分離が必要でありましょう? 「聖なるマーヤ」 それは肉体や脳を創りそして動かしておられます。肉体や脳や五感や思考を使い、個人の記憶、即ち私として生きて行為しておられるのは神であられます。それはまた人類の個人個人として生きておられます。この私とは記憶であり、この私・個人とは神の演技であります。神がこの個人の私として思考し行為して生きておられます。「聖なるマーヤ」の特徴とは「する」「なる」なのでありましょう。物質界、幽界、霊界は神が生きて演じておられます。「三界は唯心の所現」であります。・・それが口に入るもの=起こっているものでありましょう。この二元分離の世界に魂と繋がる私が入ったのです。
ですからキリストがここで言う「口から出るものが人を穢す」と言っているのは、この意識・鏡に去来して、起こっている記憶の反応に対しての「意識である私達自身」の態度のあり方のことを言っているのであります。これは霊的諸身体の有り様を言っているのであります。
しかしながらこの魂と繋がる私は殆ど意識されることがなく眠ってしまっているのです。
「なる」「する」という記憶の動きに対して、ただただ「在る」のが八正道なのでありましょう。私達が思考と同一化しないで記憶・思考から離れることが「在る」であり、それが正しい思考と行為なのでありましょう。
いま現在の人類は殆どがこの意識の座に起こって去来している記憶の反応と同一化しています。それは私達の意識である諸体(四魂)が未形成であり充分使用されておらず、浄めること、養うこと、成長させることをしていないからですと。
従って私達は私達の幸身魂や奇身魂を成長させることができないのです。
ということで私達は当然のことながら自分である意識と記憶の反応とを同一視してしまっているのであります。
キリストは、この意識の座(鏡)に去来する記憶の反応に対しての私達の現在の態度とは、記憶との同一化をしている状態であり、それこそが自身を穢しているのである言っているのです。
それはまた、黒住宗忠のいう「それ人の心は天照大御神の御分心にして我が心にあらざれば、人の心を傷むるとは天の心を傷むるなり、人の心を養うとは天の心を養うなり」であります。
黒住宗忠とは四魂の大元である直毘・直日・直霊が顕現しておられる至聖の方であります。黒住宗忠は「立ち向かう人の心は鏡なり己の姿を映してやみん」と私達に真実を伝えております。
この言葉を理解するには私達が直霊と一体になっていなければなりませんが、私達は霊的諸体の高次の心を使い、正しく思考し、正しく念じ、正しく行ずることは出来るのです。正しく思考し、正しく念じ、正しく行うというのは、何にもならず、何も求めず、何処にも行かず、一切万物すべてをただただ愛すると言うことでもあります。
その黒住宗忠という直霊とひとつになった方の立場から見れば、私が見ている相手・対象とは私自身なのだといいます。私を殺そうとして襲いかかっている敵とは私自身なのですと、私の前にいる化け物や敵意のある悪人とは私自身なのですと。会社や家庭や近隣のどうしようもないその相手の人とは私なのですと。相手とは私自身なのですと。ですから相手を変えるのではなくて自分を変えるためには私は私を愛さなければなりませんと。
私達は未熟ですからその真理を理解出来なくても、正しく思考し、正しく念じ、正しく行うことは出来るのであり、それをワークする必要があります。
本来の私達とは意識と言う鏡に去来している思考や行為をしている私では決してないのだと、私達はそれを観照している意識であり、鏡であり太陽(天照御祖神)を顕す意識そのものであると、であるので、その直霊と一体になる事は可能なのですと言われております。
悲しいかな、私達意識は記憶と一体化して自分を穢してしまっているのであります。
では一体どのようにして毎日を生きれば良いのでありましょうか?
聖賢方は、私達に対して「汝の敵を愛せよ」と、記憶に対して私達の持っている正しい思考と正しい行為を使役して愛をもって接するように私達に対して教えておられます。
この記憶に対しての態度・・それは記憶と同一化してしまうのか?それともその記憶を浄化し、記憶から自由になるためにその記憶を愛するのか?その選択が意識としての私に求められているのですと。
記憶と一体化して、自分を傷めてしまうのか?それとも自分を成長させ正しい思考と正しい感情と正しい行為を養うのか?霊的諸身体を成長させるのか?
では記憶に対して正しく思い行うとはどういうことなのでありましょうか?
それは全ての全て内と外の一切を愛することでありましょう。
その愛とは受け身ではなくて積極的な愛の行為なのであり、積極的な意識の行使、正しく思考を使用することであると言われております。
それは全て一切を愛すること、記憶に対して愛を捧げることだというのであります。万物に感謝し万物を愛し、自己に感謝し自己を愛し、肉体に感謝し肉体を愛すること。
通常では、私達はその記憶の反応である私・人格と一体化していて、常に相手や世界を対象として知覚しており、自分はその相手・対象とは別の知覚主体である・・・とその様に全てを分離分割し二元の知覚認識をしております。
見る者と見られるものは当然別々の存在だと確信しております。肉体も自分の肉体であり、自分の対象として観察していて自分を分離して観ているのだということに気がつきません。
しかしながらこの魂の高次の知覚によれば、対象を二元的に見ている現在の私達のこの知覚とは記憶・人格の知覚であって、高次意識による正しい知覚ではないというのです。
それをクリシュナムルティーは「見るものは見られるものである」と教えておられます。主体とは客体であると。私はそれであると。
またクリシュナムルティーは「恐怖を見ているものは恐怖であり、そのことを理解している中に愛が現れる」と言っております。
これは相手を見ている私とは、その相手が私であり。私がその悪を見ているのではなくて悪が私だと言うこと。それは同じく私が世界を見ているのではなくて世界が私であると言うこと。私が敵を見ているのではなくて敵が私であると言うこと。
同じようにヒューレン博士は相手とは自分が投影しているのですから相手を癒やすのではなくて、私を癒やすのですと教えております。世界を変えるのではなくて、世界は私なのですから私を癒やすのですと。クリシュナムルティーと同じ事を教えておられるます・・・これらのことがらは、二元分離という記憶の思考によって完全に支配されてしまっている私達人類には思った事もない突飛で非常識な考えのように思えますが。この真理こそが内なる魂の目からの観ている真理なのでありましょう。
では、もし「私達の知覚は記憶でありそれは無知であり、錯覚なのである」というこのことを頭だけではなくて、ヒューレン博士のように本当に腹の底から理解しているならばどうなるのでありましょうか?
この正しい知覚それ自体が記憶からの解放を齎すのではないでしょうか。
正しい知覚とはクリシュナムルティーのいう「思考なく観る」と言うことから齎されることでありましょう。
また、この記憶の人格の私とは私ではないと正しく知覚しているのは誰でありましょうか?
それは即ち・・・これら虚偽を虚偽と見ているものは誰かと言うことでもありますが。
それは当然、虚偽を虚偽と見ているものとは虚偽ではあり得ず、それを看破して観ているものとは記憶の反応ではない意識、四魂の意識を超えた大元の直霊であることでありましょう。エレブナ的に言えばコーザル体を介した霊魂の意識なのですと。
虚偽を虚偽と見ているものは記憶の反応ではない高次の意識。それは働き出した意識の座・鏡である霊的諸身体の意識なのでありましょう。
それは記憶が産み出した人格の私ではない私でありましょう。
これが魂と繋がる私の意識であり、朧気ながらも徐々に自分自身に気がつき始めている意識自体であることでありましょう。
神道で言う四魂が形成され始めたのであります。
ここでこの正しい高次の知覚からの真実をクリシュナムルティーは「観察者は観察されるものである」と言っています。「見るものは見られるものである」と言っております。主体は客体即ち主体は対象であると言っております。「私はあなたである」と言っています。・・・これは魂の根源から観ている現実であり、真理でありましょう。
ヒューレン博士もクリシュナムルティーと同様に世界は私の中にあり、世界とは私の責任だと言っているのであります。・・私が作り出したからです。
相手とは自分の責任なのです。と
両者はともに「見るものは見られるものである」と言っております。この「正しい高次の知覚の中には私は存在していない」と言うのです。あるがままがあるがままにあると言うのです。
これは主体と客体、私が見ている相手や対象は一つであると言っているのでありましょう。
・・・この知覚とは魂の大元による高次知覚なのではないでしょうか。
この知覚とは超意識であり、それは五感でもなく超五感(超能力)でもなく、バルト界やアストラル世界やメンタル世界での知覚でもなく、それらを超えているさらに高次の超知覚なのでありましょう。
この超知覚認識とは、いうならば神道でいう天照大御神の御分心である一霊・直毘・直日の知覚認識なのでありましょう。この目で観るとき、世界は神のみであり、愛そのものであり、完全完璧なのでありましょう。
そして、もし本当に「観察者は観察される者である」という高次の直接の知覚がそこに在るのならば、即ち対象を自分とは分離しているとして観察している主体とは虚構であり、「観察する私とは観察されるもの即ち客体・対象である」「万物は私の中にあり」、そのとき、そこには「私の中に万物はある」ということの直接の超意識による知覚があるとき、そのときそこには神聖なる秩序が顕現していると言われております。
それは「見るものは見られるものである」と言う「私とあなたの分離がない」超知覚の至福の状態のことでありましょうか。
そこには見ているものは見られているものであるいうことを、実際に知覚をしている超意識状態が顕現しております。
そしてそこには思考による二元分離は存在しておらず、そこに愛が在ると言われます。全てが完全完璧であり、そのとき愛に値しないものは何も存在していないのでありましょう。・・それが実相の実在なのでありましょう。
私達が見ている世界は記憶の世界なのです。記憶が見ている世界なのです。
神は愛なりとキリストは言っておられます。
愛とは神だからです。愛が神なのですと。
「私が恐怖を観察しているのではなくて、恐怖が私です」という非分離のこの超知覚。・・「見るものは見られるものである」と言う超知覚。「虚偽を虚偽として見ている中に真理が在る」というこの超知覚があるとき、
そのときそこには愛(神)が在りますと言っておられます。
この久保栄治はそれを垣間見たこともありません。私は全く知りません。
しかし、例えば、もしその思考ではない意識の目で肉体を見る事ができるのであるならば
そのときには、それは即ち
私がこの肉体を対象として観察しているというのではなくて、見ている私が居ないことでありましょう。
そのとき対象として見ている私は消え去って「秩序である本来の肉体」だけがあることでありましょうと・・教えておられます。死すべき荒身魂が本来の荒身魂に成長したのです。
そこにはもはや観察者や体験者や記憶する私がいないのです。ただ愛だけが在るのですと。
そこでは見る者と見られるものとがひとつになっていて、分離分割がないのです。この不二一元、至高なる目の中にはすべては一つであり、全ては分離していないからですと。魂の超知覚がそこに顕現しておりますと。実相を実相が観ているのです。
そしてその正しい意識の状態の中に正しい秩序が現れていることでありましょうと言われます。実相は「見るものは見られるものである」であるからですと。
この思考ではない意識に対してミルダッドは以下の様に教えておられます。
ミルダットは言います
「憎まないことが愛することではない、
〈愛〉は能動的な力だ。
〈愛〉が動きと歩みのすべてを導かな
いかぎり、自分の道を見いだすことは
できない。
そして〈愛〉が願いと思考のすべてを満たさないか
ぎり、願いは夢の中で刺草となり、思考はあなたの
日々の挽歌となるだろう。
そして愛することとはなんだろうか
愛する者が、愛する相手に永遠に吸収されて、