純粋に聴いているとき「私」の精神は空っぽです。
それ故に私は聴くことが出来ます。
「私」は空っぽで聴いています・・そこに新しい知覚が在ります。
純粋に聴くこととは、愛なのです。
純粋な知覚とは愛なのです。
その空っぽに聴くことから「新しいこと」が発見されます。
この空っぽこそがあらゆる全てのことを保っているのです。
何も動機や方向付けがなく聴くこと、
このように空っぽで純粋に聴くこととは愛なのです。
純粋に聴くこととは愛なのです。
純粋な知覚とは愛なのです。
・・クリシュナムルティー「ボーム博士との対話」より
私の感想
私の感想を述べる前に、このクリシュナムルティーとボーム博士との対話は公開
ではなくて、個人間のレベルの高い対話であることを最初に知って下さい。
勿論、私は上記の言葉を全く理解出来るレベルにはいません。
ご存じの様にクリシュナムルティーは究極中の究極のみを指し示しており、途中の
次元の教えを一切省いており、熟睡中にも意識が覚醒している第四の意識状態の
人に対して話しております。
私達の日常生活の中で、私達は人の話を聞いているとき、実際には人の話を聞い
てはいないのだと言うことなのです。
また、人と接触しておらず、人と会ったことはないのであると言うことなのです。
通常の「人との会話」に於いては、条件づけられている脳のシステムによる反応
が起こっていて、その記憶がお互いに反応しており、その記憶が聴いているのです。
それを私達は自分自身が聴いているのだとして錯覚していることに気がつきません。
この記憶の反応がこの現在意識の私なのです。記憶の反応が自分を私と認識してい
るのです。
人と話しているときとは、私達は人の話を聞いているのではなく、自分(記憶)
の話を自分(記憶)が聴いているのであって本当の意味では相手に接しているの
ではないというのです。
条件付けられた脳からの記憶が私として反応しているのです・・・。
話しているとき心の中では、相手の話を聴いているのではなくて、自分が自分に応答し、
自分が自分と対話しているのであって、決して相手の人に耳を傾けているのではない
・・ということなのでありましょう。耳を傾けるとは思考の反応がなく見ることだからです。
本当の意味での聴くと言うこととはこの記憶の反応ではない、人類にとっては未知なる高次の
霊的身体(神道で言う四魂)の機能だと言うことなのです。
しかしながら残念なことに私達人類には脳の反応以外の知覚や意識の事は全く何にも分かって
おりません。科学の扱う範囲が非常に狭く浅薄だからなのです。
ここで言う自分と思っている私とは脳のシステムに依って形成された記憶のことであります。
記憶は記憶の事を私と思っており、その記憶は肉体のことを「私の肉体」だと錯覚しており
ます。肉体は明らかに私のものではなくて神のもので、神でなければ維持することも
動かすことも生きていることも出来ません。神が肉体を使って行為し、知覚認識し、私として
生きているのです。
その記憶の反応が人格のこの私であり、この私がこの現在の知覚認識している久保栄治なのです。
久保栄治が見ること、思うこと、話すこと、聴くこと、感じること、行うこと、期待し願っ
ていることとは記憶の反応なのです。この記憶が死後も生命と共にあの世に行くのです。
ですので私達は相手の人に耳を傾けているのではなくて、記憶である自分が記憶である
自分と自問自答しているということなのでありましょう。
常に自分の持っている基準から相手を判断し、評価して、相手に対してああ
だこうだとレッテル貼り、同意したり、反対したり、批評したりしています。
これらは私達の記憶が行っている反応なのであるということに私達は決して気
がつくことはありません。
何故ならば私達は眠っていて、私達の意識は記憶によって完全に占領されて
いるからです。人類の意識とは意識ではなくて脳が産み出した記憶の反応に過
ぎません。
現在の私達が自分の意識だと錯覚しているこの意識とは本当の自分である魂か
らの意識ではなくて脳の反応である記憶なのです。
その記憶が本来の私である私・鏡・意識を覆い尽くしているのです。
本当の私の意識は、この記憶に汚染され、混濁し、混合しているので、心の中に
は葛藤が絶えません、しかしそれ故に「穢れを祓うことで」正しい思考と正しい行
いが求められるのです。
記憶は自分がこのように言ったら相手は自分のことをどのように思うのだろうか?と、
自分の評価を常に打算的に考え、また相手は自分の事をどう思っているのだ
ろうか?と常に自己関心から、記憶である自分の持っている観念や自分の価値
観に基づいて相手を見て判断しています。
・・そこには全く「愛」の欠けらもないのです。・・それが私・・私を包んで
いる記憶です。
現在、私達の意識段階が記憶の反応という潜在意識的意識段階にあって、肉体の
脳ではない霊的身体の意識はまったく目覚めていないのです。
それなのにこの記憶の私は、自分の事を「私は私であり、私は霊魂であり、私は
神の子である」と錯覚しています。
自分が持っている先入観や自分の観念で相手を見て、相手に接しており、自分
が持っている相手のイメージで相手を見ています。同様にこの記憶は自分自身の
ことを「私自身」だと固く信じています。その記憶の私が私と混濁しているのです。
ですからこの記憶の私は自分が既に持っている記憶から相手に接し、相手への自分
の判断や印象やイメージで相手に接しているのであって、その相手に本当に接し
ているのではありません。
そして、それゆえに私達は今まで一度もその相手に対しては決して耳を傾けた
ことがありません。いままでに相手を見たこともないのです。
自分の中にある「記憶である私」が自身を相手の鏡に投影して相手だと錯覚し
ています。それなのにそのことを全く理解しておりません。
神道で言うところの高次の霊的諸魂の身体の意識・四魂は未だ眠っているのです。
「天照大御神の御分心」の私は未だ顕現していません。四魂も未だ機能してい
ないのです。
この現在の意識的自己とは「未知なる神の子」「眠っている神の子」を覆い
包んでいる記憶であり、人格であり、そして死後も生き続けるエレメンタル
なのです。
では相手に耳を傾けると言うことはどういうことなのでしょうか?
それにはこの久保栄治には答えられません。私は私である四魂が未だ形成
されておらず覚醒しておらず、機能していないからです。
では、この未形成レベルの私が「自分が耳を傾けている相手」とはいったい誰
なのでしょうか?
自分が話している相手とは、自分が認識している相手とは、実は記憶である
自分自身なのではないでしょうか?
自分即ち記憶の欲望が、自分の欲望自体を相手として見ているのです。欲望・
願望・期待が記憶だからです。欲望・願望・期待は記憶から起こっている
反応なのです。
記憶は相手である鏡に自分自身である記憶を投影して知覚認識しています。
自分である記憶を相手として自身である記憶を非難し、評価し、軽蔑して
います。
「立ち向かう人の心は鏡なり己の姿を映してやみん」と教えられているように、
この私の前の相手とは鏡であり、記憶が見ている相手とは話を聴いている私自
身の姿なのであると教えられております。
私が見ている相手とは、私が話している相手とは、実際には相手の鏡に
写っている私自身、即ち記憶としての私自身の姿なのです。
では、だとしたら、もし、私がそのことを理解して、私が記憶から、また
その我性から解放されることが起こって、そして相手の話を聴くことが出来た
ときには、どういうことが起こるのでしょうか?
本来の私達、高次の霊的諸身体の私、魂と繋がる私である鏡としての私が
知覚され、自他に分離のない魂と繋がる私が自己認識されるのではないで
しょうか?それは無我であり、無我とは私が無い「空」であり、「空」とは
無限であり、全体であり、自他の分離のない「愛」であると言われます。
ヒューレン博士はその霊的諸身体としての私とは「空」の私なのだと言います。
「空」の私とは「無我」の私であり。魂と繋がる私・再形成された霊的身体
であり、それは覚醒している四魂のことでありましょう。
クリシュナムルティーはその時、
「私は空っぽで聴いています・・そこには新しい知覚が発生しています・・」
「私が空っぽで純粋に聴いているとき・・そこには愛があります」と教えておられます。
「見るものは見られるものである」であることを、その空っぽの心が理解しているとき
そこには自他の分離のない状態が顕現していますと、即ち「愛」が出現しているのだと
いわれています。愛とは「私はあなた」であり、「私とあなたの分離がない」ことです。
その時、「私は世界である」のです。「私の中に万物があり、万物の中に私がある」
のです・・これが愛に他なりません。これが空に他なりません。
そしてこの愛は常に新しく、活動的でエネルギーに満ち満ちているのだ、と言うのです。
この記憶が空っぽで聴くことが実際に出来ているとき、それが機能し始めたとき
ヒューレン博士の言うように、相手とは自分であり、相手とは自分の責任である
という知覚が出現し、自分であり相手でもあるひとに「癒やし」が出現するとい
うのです。
そのとき私達は「癒やしとは相手を癒やすのではなくて、自分を癒やすこと
であり、自分を癒やすことが相手を癒やす事なのです」・・と言う高次の知覚、
ヒューレン博士の言葉を理解することが出来る「高次の知覚認識」
である高次の霊的諸身体が覚醒しているのかもしれません。無我である「空」
なる私が顕れたのかもしれません。新たなる高次の意識が顕れたのかもしれません。
それまでは、私達は神の子であっても幾多の「私・我性」に包まれ被われている
のであって自己の認識はないのです。それまでは私・自己と認識しているこの
私とは私を騙る記憶に他なりません。それは全く以て自己認識ではありません。
私達が空っぽではなく、記憶に染まって、記憶と思考に依る善悪判断
に囚われている限りは、私達は相手に出会った事もなく、相手と話し
たこともない。ということでありましょう。
親子、夫婦で一緒に生活していたとしても相手と出会ったことがないのですと。
私達がこの記憶に染まって被われている限りは私達は妻や夫に出会うこ
ともなく、人と出会ったこともありません。
本当の意味で妻や夫とも、親や子とも話しをしたこともないのです。
私達が記憶が染まり、記憶としての知覚・意識しかない限り、私達は我性に
染まって、決して相手の話しを聴いたことがないからなのですと。
私にはクリシュナムルティーがいう私達が空っぽの精神のときに顕現する、
知覚認識、即ち私達の意識の鏡から記憶が取り祓われたときに出現し
露われるというその新しい知覚とは皆目、何であるのかはさっぱり
分かりません。
私は本来の私である霊的諸身体が目覚めておらず、その知覚がないからです。
現在の私の状況と言えば、悲しいことに、本来の私は「私という記憶」に厚
く覆われ包つまれているので、全くもって空っぽになることができていない
のです。
私は人の話を聴くことが出来ない状況に陥ってしまっていて、しかもその
ような悲惨で自由がない状況であることに全く気がついておらず、毎日の
生活をただただ銀行の残高を気にして、自分の願望成就を願い、記憶の欲
望を満たし、肉体のことだけに執心して生きています。
私は深い意味で「生きる為には死ぬこと」の重要性を全然理解していません。
この私を騙る記憶の反応、即ちこの「虚偽の私」を「虚偽の私」と見ることが
虚偽からの解放に繋がると教えられております。
クリシュナムルティーは「虚偽を虚偽と見、虚偽の中に真理を見、真理
を真理と見ること」と三つのステップを教えておられます。
真理が顕現すること、即ち「空の知覚認識」が顕現するためは虚偽である
「記憶・私」をハッキリと記憶だと見切る事が、その為には必要であると
言うことでありましょう。
そのためには私達のこの目とは記憶に占領されており、この目が見ること、
又、見ることが出来るものとは全てが記憶であり、この「私記憶」に包ま
れている限りは、私が見ているものは、全てが記憶自身の姿であることを
自覚しなければ、私達は一歩も前に進むことが出来ません。
それなのに、この私達の目とは残念なことに、
現在の人類に於いては「魂と繋がる私」の目ではなくて記憶の目である
のにも拘わらず「私は神の子」であり、「私は真我である」「全ては完全
完璧である」などと賢者を騙り、賢者気取りの愚者が幅をきかせています。
この自己欺瞞・・それは最も真理から遠ざかること、真理を穢すこと
だからです。それは記憶の中に埋没し沈殿してしまうことだからです。
記憶には「空」を知覚認識できません。記憶には「空である本当の私」
を知覚し、認識することはできません。記憶には「真理」を認識できませ
ん。記憶には「自分は神の子である」との知覚認識はありません。なのに
記憶が私は神の子であると詐称し、記憶が自分を真理であると詐称することは
最大の虚偽です。「真性で神聖なる体験には体験者はいない」、「空の
中には空を知覚認識し記憶している私はいない」と教えられております。
その空っぽのマインド、空っぽになった心にはあらゆる全てのことが
保たれて実在していると言われております。
その空っぽの心の中にこそ完全なる秩序が、完全なる全てがあるといわれ
ているのです。
その空の中に全ての全てが、そして愛が在るというのです。
そしてその愛が本当の私であると教えておられるのです。