許してください!!ごめんなさい!!
ホ・オポノポノ
私の感想
世間では簡単に思われているこのホ・オポノポノの「真言」とは実は簡単ではな
くて非常に深淵で、実行は極度に難しい「行」であり、数ある真我探求の中の一
つの方法であると思われます。
その真我探求しているこの私に向かって、同じこの私が唱えるのがホ・オポノポノ
の絶え間なく行う「真言」であるとおもいます。
これは即ち私が私に向かって愛と感謝を唱え捧げるということなのでありましょう。
平たく言うと私が私を愛し、私が私を赦し、私が私に感謝すると言うことであります。
但し、ホ・オポノポノの言う私とは即、世界であって常識通念での私(即ちこの私の
ことでこの私とは私を騙る記憶・エレメンタルの反応のこと)ではまったくありません。
私とはあなたなのであり、私は世界なのですと。(これは私という観念から解放された
意識即ち「万物一切の中に私はあり、私の中に万物がある」という意識からの言葉です)
ホ・オポノポノでいうわたしと言っている私とは、重層的階層的であり、たましいと繋
がっている私のことで、それは表面意識と潜在意識から成り立っており、この表面意識は
潜在意識にある「記憶」と混合してしまい「記憶」が見るように見、行うように行い、「記憶」
が感じるように感じているけれども私は「記憶」ではない魂なのです。といっております。
ホ・オポノポノでは「通常の社会で私と思い思われている記憶」のことは単に記憶と言い
魂と繋がる私のことを私と言っています。そしてその魂と繋がる私の表面意識に話しかけています。
その私は肉体に入って脳と結合した表面意識なのですが、自分が自分ではない「記憶」
に包まれ被われ混合してしまっているので、その「記憶」が浄化クリーニングされて
「記憶」から解放され自由になっていない現状では、私達は「記憶」によって奴隷とし
て束縛されているのです。
では「記憶」とは何でしょうか?何の記憶なのでしょうか?
それに対して余り詳しくは述べてられておりませんが・・それはきっと現在の私達・混濁
している意識では誤解するだろうからでしょうが・・わたしはそれは思考だと思っています。
条件付けられている脳が受信し発信しているその思考を肉体に入って脳と結合した私達は
その思考を自分だと錯覚してしまっているのです。思うにその思考とは「私という観念」
根本無明という聖なるマーヤのことであろうかと推測する次第です。
地球文明の社会通念上での私、誰もが信じて疑うことのない通常の私、この自分自身
だと思っている私とは潜在意識にある記憶の反応のことでであって、まったく私ではない
というのです。その記憶が「私は肉体だ、この肉体は私だ」と錯覚しているのです。
実際には、この私の潜在意識は記憶によって占有されて自由が全くない状態にな
っていて、見ること、思う事、行うこと、感ずることの全てはその記憶が支配し
記憶によってコントールされ実行されているので私達には全く自由が無いという
のです。
しかし、この自由がない状態での表面意識の私には記憶が起こしているそれらの
思考や感情や行為に対しての態度の責任はあるのです。何故ならば結局は私達
がその記憶と一体となって想い、行い、見てしまっているからです。
表面意識の私はその記憶と同一化してしまうのか?それとも魂と繋がる私と
して思考と同一化しないでたましいと繋がっている私として責任を持って
想い考え、語り、見て行うのか?
ですので表面意識の私にはその記憶が興している思考や感情や行為ではなく
表面意識の私としての思考や感情や行為の責任があるのです。
表面意識としての私は思っている記憶の思考や行為に対して如何に思うの
か?如何に見るのか?如何に行うのかの責任があるのです。
私達が一体化しているその記憶とは、個人個人の今生だけの記憶だけではなくて、
全宇宙の全人類の記憶であり、この記憶が私達の思考や行為や知覚を支配し世界
中の混乱を引き起こしているというのであります。
よって、私と世界が(それは同じだが)正しく生きるためには、この記憶
の浄化が必須であり、その私達の潜在意識の記憶の浄化とは内なる魂の根源、
即ちハートの内なる「至高の実在」の恩寵によって齎されるというのであります。
そしてその記憶の浄化のためには上記の「真言」を思考なく唱えることが必要
であるというのであります。
思考なく唱えると言うことは思考には不可能です。確かにそれは私達の潜在
意識にある記憶には不可能なのです。が、しかしながら魂と繋がっている私達の
表面意識にはその記憶と一体化してしまっていても、ごく僅かにその記憶や思考で
はない表面意識としての「意識」が使えるのです、その「意識」には可能性と自
由が在るのです。
であるからこそ、聖者や哲人や賢者や覚者は私達に向かって語りかけているのです。
ですから私達はその自由意志を使って内なる「至高なる実在」に向かって記憶か
らの自由解放をお願いすることが出来ます。即ち思考を浄化し、記憶から自由になる
事をお願いすることができるのです。
確かに現況でのこの私とは脳の反応と記憶の反応とたましいからの私が混合して
いるごちゃ混ぜの複合している坩堝状態の表面意識でありますが、たとえ記憶と思考に
被われ混濁してはいても私達は眠れる神の子だからでありましょう。
以下はホ・オポノポノのこの「真言」にたいする私の独断的感想であります。
ありがとうございます!!愛しています!!許してください!!ごめんなさい!!
とは?
■何故、何のためにこの言葉を常時絶えることなく唱えるのでしょうか??
・・それは内と外に、私とあなたに即ち心と世界に秩序が齎らされるためにでありましょう。
あなたは私とは別人格だと思っていても私はあなたであり、私は世界の中で独りぼっちで
世界のことは私とは関係ないのだと思っていても、私は世界であるからです・・と。
■では秩序とは何なのか?その唱えることで齎される秩序とは何なのか??
・・内部と外部に、肉体と心に、環境と、家庭と、仕事と、私と世界に、私とあなたに
齎されるその秩序とはその唱えている言葉が指し示している当のものであり・・それは許しと
愛と感謝であり、それが内と外に、心と世界に齎されることでしょう。その言霊が祈願となって
内なる魂を経て、最内奥の神聖なる実在へと届き、その神聖なる実在が記憶の消滅を齎し
秩序が顕現しその秩序が内部と外部にそして、万物一切に対して顕現して平和が実現することで
ありましょう。と
■では誰に対して愛している、ありがとうございますと唱えるのであろうか??
・・それは一瞬の狂いもなくカルマによって起こっている心の内部と外部の出来事に
対して。そしてその起こっている出来事に対して常時、意志、動機、思考、感情そして
行為として反応している「記憶=私・自己」に向かってでありましょうし、
更にはそれを支えておられる「未知なる内なる実在」に対して
愛と感謝を捧げるのでありましょう。
■では誰がそれを唱えているのか?誰が愛している、ありがとうございますと唱えているのか??
・・・それは私であります。その私とはこの表面意識である現在のパーソナリティーの私のこと。
しかしながらその様に質問しているのは誰なのでありましょうか?
それは自らを知ることのない思考(無知)であり、自らを分離分割し分類し、言語でもって自分を理解
しているつもりになってしまっている思考である記憶が質問しているのではありませんか。
その思考で以ては自分自身である現在のパーソナリティーは知ることは出来ないのではあり
ませんか?
私達である表面意識の現在のパーソナリティーとは坩堝状態なのであり、記憶の反応である
思考には記憶の自分自身を知ることは出来ませんし、まして現在のパーソナリティーという
私達(たましいと繋がっている私)のことは全く分かるはずもありません。
今話している(または今聞いている)この記憶の自分とは高次の自己なのか低次の自己なのか
の識別は思考である記憶・人格には出来ない事を知るべきでありましょう。
しかし、私達の表面意識とは起こっている内部と外部に対して反応している記憶だけでもなく、
その記憶の反応に振り回され一喜一憂している未熟な現在のパーソナリティーだけでもなく、
ごく僅かに内なるたましいからの意識も。さらに超感覚の意識も顔をのぞかせる
事もあるわけですから・・・私の表面意識は坩堝状態なのです。
■ではその現在のパーソナリティーの私とは誰か?
・・それは魂と繋がっているこの表面意識の私のことであり、しかしながら「迷える神の子」で
ある現在のパーソナリティーのこと。大生命が生かしあらしめている私、肉体に結合した私のこと。
DNAから必然的に起こっている内部と外部に対して、条件反応を繰り返している記憶や神聖なる
肉体のことを自分自身だと固く信じ、その記憶の反応を自分の反応だと思い込んでいる私の事。
この私がたましいと繋がっている私のことであり、即ちこの混濁している表面意識の私の事で
あります。坩堝状態の私の事であります。
この私は条件付けられている脳によって生じている思考と、その記憶によって汚染され
て記憶と一体化し「坩堝」状態にあるけれども未知なる神の子の私自身なのでありましょう。
■では私達(たましいと繋がっている私)現在のパーソナリティーが一体化してしまっている
記憶とは何でしょうか?
・・・それはラマナ・マハリシ達が言うように計画し、動機を持ち、意志を持ち、将来を考え
熟考し、学び、恐れ、競争し、行為している現在のパーソナリティーが生み出した記憶・人格の私です。
エレブナで言うエレメンタル、想念形態の私、自分を私と思っている記憶のこの私のことです。
感情を持ち、思考し、知覚し、行為している私がその人格の私、記憶なのです。考え行為しているのは
私達(たましいと繋がっている私)である現在のパーソナリティーではなくて、その現在のパーソ
ナリティー(コーザル体の部分)を覆い隠している記憶なのです。現在のパーソナリティーの思考
と行為と知覚は記憶に完全に支配されており私達には高次の諸体と繋がっているリンクが未形成な
のです。従って肉体の熟睡中の体験を脳と結合している現在のパーソナリティーには思い出せない
のです。
現状の段階の私達(たましいと繋がっている私)現在のパーソナリティーには残念ながら思考と
行為の自由はありません。神の子としての思考と行為が顕れないのです。
そのことをヒューレン博士もラマナ・マハリシも多くの聖賢達が言葉や表現は異なっていても
「意志が有る限りは私達(たましいと繋がっている私)には自由がない」「行為も感情も思考も
意志もあなたではない、それはあなたに起こっている」と言っているのです。
しかしながら私達(たましいと繋がっている私)にはその思考に対する「態度」の自由が在ります。
それが「ありがとうございます」「愛しています」「御免なさい」「許してください」と思考なく
唱える言葉であり、その言葉が言霊となって私たちに思考からの自由を齎してくれるのです。
その言葉が、人格から、記憶からの解放を齎してくれます。これは親鸞の「南無阿弥陀仏」
と同じであり、マントラを唱える超越瞑想のような心に空白状態を生じさせてしまう危険な行為
ではありません。
その逆に心を神に向かって成長させ、記憶・思考の縄縛から心を解放させるものです。
それが「ありがとうございます」「愛しています」の言霊なのです。
■ではその坩堝状態の中で、その「真言」の言葉はどの私が唱えているのだろうか?
・・では逆に質問しますがその質問は誰がしているのでしょうか?それは全てを分離する思考が
思考し質問しているに過ぎないのではありませんか?現在のパーソナリティーである
この表面意識の私は汚濁し何が何だかわかない坩堝状態にあるけれども神の子なので
あります。けれども知覚と認識と行為の主導権は殆ど記憶に奪われてしまっているのです。
そこでこの混濁し坩堝状態にあるのだが神の子である現在のパーソナリティーに
求められることとは、何でしょうか?
それはカルマによって必然的に起こっている衝動や行為や意志に対して、即座に条件反応し
ている記憶の反応と一体化することなく、思考でもって思考することなく、そのまま万物全てを
固く抱きしめ、有り難く感謝して全てを受け入れ、「汝の敵を愛し」、全てに許しを請い
思考を含めたあらゆる私、即ち坩堝の私でもって、思考とその根源に対して「ありがとうございます」
と愛と許しと感謝を唱えなさい。ということでありましょう。そのようにして表面意識の私から
穢れが取り祓われて綺麗になった表面意識の私に出会い、そしてこの坩堝状態の私を
生かしておられる神の子の私と出会って、この本当の自分自身・私を知るためにはこの
愛と感謝を万物一切に捧げるのであります。私は眠ってしまっているけれども
「神の子」「たましいと繋がっている私」なのでありましょうから。
以上が私が思っているホ・オポノポノの真言に関してであります。