その想いは誰に起こっているのか?
・・それは「私」に起こっている
ではその「私とは誰か?」と私に問いかけ続けなさい
・・・ラマナ・マハリシ
私の感想
まずはじめにまず自分の中に沸き起こっている欲望や恐怖や自我の動きに気が付きなさいと。
(しかしこれは別に気がつかなくても誰でも欲望や恐怖や自我の動きは知覚認識しているので
ここでいう気がつきなさいとはそれらと一体化しないで客観的?に見なさいということである)
ではそれらの猜疑心、増上慢、嫉妬心、非難、イライラ、恐怖、欲望・・それらの想いは
誰に起こっているのでしょうかと?
勿論、それらの想いは私に起こっているに決まっていることでしょう。
では、そのそれらの想いが起こっている私とは誰なのでありましょうか?
自我や恐怖を観察している観察者とは一体誰なのでありましょうか?
では、それらの起こっている嫉妬心や想いや体験を見ている私とは誰なのか?
自分の自我や嫉妬心を見ているこの私を凝視しなさいと。
と、ラマナ・マハリシは尋ねているのではないでしょうか。
(・・このようにして自分に対する質問をすることは考えたこともありませんでしたし
実際のところ私は今までに殆どこのような質問を自分に対してしたことはありません。)
私達は日常の生活の中で突如すがたを現した自分に潜んでいた自我に出逢って驚くことがあります。
いままで気が付かなかった現実の自分の姿に愕然としたりします。
自分が抱いている自分のイメージと、垣間見せた自分の現実の姿の差に呆然とすることがあります。
では、その唖然としている私、自我や恐怖を観察している私に対して注意を注ぎなさいと。
自己観察というのは「その怒りや恐怖や自我を見ている私を観察すること」であって怒りや
恐怖や自我を観察する事ではありません、なぜならそれは自己ですらないからですと。
怒りを見ている私を見ることが自己観察なのですと。
ここでラマナ・マハリシは「自己観察」している主体に対して
この自分自身に対して何かを働きかけたり、自分を変えようとしたりするのではなくて
この私という「何かになろうとしている私」、「私を批判したりしている私」、
「自分から逃げようとしている私」「自分を変えようとして何かをしようとしている私」、
何かになろうとしたり、悟りを開こうとすることなく、そう思っている私自身
・・この「私」自身に焦点を当て、その「私という自我」を見ている「私」自身に
注意を注ぎなさいと。
イライラや恐怖や自我を観察している観察者、その観察者である私に注意を注ぎなさい。
と言っているように思えます。
しかしながら
この「私は誰か」という質問に言葉で答えたり、考えたりすることは、即ち記憶や思考を使うので、
この観察している私が記憶であり思考である以上は、言葉を使って答えているという事は自我を見てい
る私とは見られている自我と同であることになります。それゆえにその恐怖を見てなんとかしよう
としている私の事を思考で判断しないでただただ愛し抱きしめるのですと。
私達はこの姿を現した自分・自我のことを見て非難や蓋をして逃避しようとしたり
逃げるために同一化しようとしている「自我を観察している私」「主体である私」に対して
思考を差し挟まないで「見ている私は誰か」と問いかけ、その観察者、見ている私にただ
ただ愛を注ぎ、注意を注ぐことが重要なのではないか・・・と、そう思うのです。
○○を「見ている私」を見る
○○を「願っている私」を見る
○○を「考え、思索している私」を見る
○○と「同一化している私」を見る
○○と「苦しんでいる私」を見る
○○と「不安で恐れている私」を見る
・・・これは私にとっては、なかなか複雑で難しいことです。
その起こっている自我や恐怖や軽蔑や嫉妬を観察しているのは私ですが、
この観察している私のことを思考や言葉を使わないでただただじっと見るのです。
その恐怖や自我を見ている私をただただじっと見守るのですと。
言葉や想念や思考を使わず、その思考を観察している私に注意を注ぎ焦点を充てるのですと。
以下は賢者が言うので私には分かりませんが「観察者、観察されるもの、観察これは同じであり
起こっているマインド」なのかもしれません。
思うのですがこのラマナ・マハリシやクリシュナムルティーの自己観察とは、通常の
自分の内面で起こっている事を単に観察すると言うことではなくて、この自分の内面を
見ている観察者のことを見なさいということなので、非常に困難な作業です。
観察者という主体を見なさいと言うことです。
イライラや心配や不安に対して気がつくのではなくて、そのイライラや心配や不安に気がついて
アクションしている私、それらを見ている私のことを見なさいと言っておられるのですから
実践することは簡単ではありません。
「”恐怖を見ている私”を見なさい」と言うことです。
これはヒューレン博士がよく会場で質問者に対して
「誰がそれを質問しているのですか」?・・と尋ねていたのと同じでありましょう。
そのように質問されて驚いた方は「それは私です」というと
ヒューレン博士はすかさず、その私とは誰なのですか?と逆に質問します。
その答えているあなたのいう私とは誰なのですか?と
それはあなたの潜在意識にある記憶なのではありませんか。
と正しておりました。
ヒューレン博士は「誰が見ているのですか?・・それはあなたの潜在意識の中にある
記憶が見ているのです」
「誰が願っているのですかそれはあなたの中の記憶が願っているのです」「だれが考えている
のですか?それはあなたではなくて記憶が考えています」「誰が行為しているのですか?
それはあなたではなくて記憶が行為しています」と言っておりました。
しかしそれを教えられて分かったつもりになっても、実際には自分自身で実行していなければ
何も実践してはいないのです。聞いて分かったつもりでも、実際に実践しなければ全く理解
していないのです。
起こっている思考や感情やあらゆる出来事を観察しているのは記憶であり、記憶が観察しています。
その記憶である観察者を見ることが記憶である観察者とそして記憶である観察されるもの、
そして観察それ自体からの解放への道なのでありましょう。
思考を超えたものが顕現するためには思考を使わずに主体を凝視する事が必須なのでありましょう。
それは思考には出来ない事であり、恩寵によるのでありましょう。
・・これは仏教には念仏の浄土宗や浄土真宗があり、禅宗があり、真言宗など求道者の傾向に合わ
せた各宗派があり、進化段階に応じては、キリストの弟子にもインナーサークルがあったように
色んな宗教にもインナーサークルとアウターサークルがあり、それぞれの求道者の傾向と進歩段階で
教えの内容は異なってくることでありましょう。
このことからヒューレン博士の立ち位置は普通に考えられているホ・オポノポノより
もっと深淵で高度であると思われるのです。