二元分離がないとき私達は植物人間となる・・・エレブナ
私の感想
二元分離がないとき私達は植物人間となる?!・・・とは何だろうか?
これは逆なのではないか?・・と思ってしまう事だろう。
普段のアドヴァイタの教えでは二元分離が無い状態とは「至福の魂の
状態」と教えられているのに・・おや?!これは何だ?!
二元分離がないときとは思考を超えている悟りの状態なのではないか?
それなのに「二元分離がないとき私達は植物人間になる」・・とは
これは一体どういうことなのだろうか?・・・
・・と頭を捻り首をかしげて「おかしい」と思ってしまうことだろう。
それは確かに二元分離がない意識状態とは至高なる状態のことで
あって、記憶の反応である思考というものは二元分離のことであろうから
思考がないときには、確かにそこには自他に分離している思考がなく、
見るものと見られるものとの分離葛藤がないことだろう。
それは神聖なる至高の状態で在ることだろう。
しかしながら私達の現在の現実の正直なところの実態とは単なる知識
でもって、口先だけの思考でもって、非二元非分離のことは何も知らな
いのに頭だけで実体験がないのに記憶の思考がそれについて話している
のである。
それは私達とは実際には「思考がない状態どころか思考でしかない状態」
なのである。
その思考でしかない状態の私達が推測しているこの「思考が無い」状態
即ち二元分離がない状態とは、それは私達においては「思考すら無い
状態」のことであって、それは全く以て思考を超えている状態ではない。
それは思考が中断している状態、即ち気絶や、催眠術に掛かってい
る状態、若しくは麻酔や熟睡、夢見という低次思考の状態のことを
言っているのである。ここではエレブナは私達の現状でのこの二元分
離が無い状態とは実際には思考すら無い状態である。と言っているの
である。
それは現状での私達の段階というのは「思考ではない意識」が未だ
全く顕現しておらず、従って思考には全く推測すらできない高次の
意識というものに関しては理解出来ない段階であるということなの
である。
私達が話題にしたり、話している二元分離がない意識状態とは
実際には思考が推測している思考の範疇内の思考の事なのである。
即ち私達が推測している「思考が無い意識状態」とは単に思考
の範疇にあって、それは思考による思考の誤解に過ぎないのである。
ということは、現状の段階での思考がないときの状態とは私達
にとっては植物人間の状態のことなのである。
・・それは思考を超えている意識とは思考には全く思いも至らない
からである。
人類が意識だと思っているのは意識ではなく記憶からの思考であり、
人類が自分だと思っている私とは私ではなくて記憶というエレメンタル
であり、そのエレメンタルの反応が思考という自他分離という二元分離
の反応であるということである。
そのエレメンタルを生みだしたのも私達の責任であり、それ故にその
エレメンタルは私達から決して離れようとはしない。
しかしながら私達はその記憶思考という泥にまみれて一体化していても
セルフエピグノーシスなのである。
クリシュナムルティーやヒューレン博士がいう「思考なく見なさい」
「思考なく在りなさい」をこの「思考を超えている意識」が未だ顕れない
段階での私達にとっては安易に話すことは出来ないし、現状のエレメ
ンタルと一体化してしまっている状態では、その「思考を超えている
意識」の段階に達することは出来ないし、それを理解することは出来ない。
現段階の意識レベルでは全くその「思考を超えた意識」がないので推測す
ることも話すことも出来ない・・。
そのために必要なこととはこの私が「自己の生まれ変わり」に達する
ことだろう。それには、真剣で持続的なワークが必要であることが教
えられている。
但しここで言う「生まれ変わり」とは目が覚めないままでこの肉体を去り
またこの物質界に転生して戻ってくる「輪廻転生」のことではない。
ここで言う生まれ変わり即ちこの「記憶の自己の死」とは勿論肉体の死で
はない。それは記憶のクリーニング、記憶である自己の祓い浄めであり
それはこの自己自我の死のことであることだろう。
思考には自分自身である思考を超越したり、思考を停止することは出来ない。
まして思考であるこの自我には自我の死を齎すことは出来ないのであり、
それには絶対的に恩寵が必要となってくることであると教えられている。
それは正確に言えば聖書でパウロが述べているように
「死すべきものが恩寵によって生まれ変わり不死となる」ことが
起こらなければならないことを示しているのではないか。
これは私が脳の手術を受けて入院していたときに垣間見た体験であるが
・・肺に水がたまって苦しくて、生死の境をさまよっていたとき・・この
私をじっと高所から観照していた意識があった。それはこの記憶の私と
は全く異なる意識であって、その時わたしはその意識に出会ったのである。
・・しかし私は未熟であるし、この「思考を超えた意識」に関しては無知
だったので、その意識に出会った瞬間にその後、私は気を失い、また思考が
戻ったときには突然まったく肺から水がなくなって元気になっていた。
お陰で私は植物人間にならずに、またこの二元分離という記憶思考が反応し
ている「我・エゴイスト」と混濁しているの意識状態に戻ることが出来た。
その時わたしはその私を観照しておられる「意識」のことは全く理解も推測する
事も出来なかった・・・それは私に準備が整い、私の未形成のサイコノエテ
ィック体が再形成されない限りは、私は私(たましいと繋がっている私)に出
会っても理解することが出来ない・・ということであろう。
クリシュナムルティーが言う「見るものは見られるものである」「思考なく見な
さい」とはその準備が恩寵によって整い、諸体が再形成されている段階に達して
いる状態の人に対しての言葉であり、私達通常の意識段階の人間には思考なく見
るということは植物人間になってしまう事を意味している。
何故なら未知なる高次思考、高次感情、高次知覚が発生していない状態での
二元分離が無い意識状態とは即ち植物人間の状態のことだからである。
ラーマクリシュナやラマナ・マハリシの不二一元の「思考を超えている
意識状態」からの真理の言葉とは、無明の中で生き続けている私達の進化段
階においては勿論理解することは全く不可能であり、それを聞いたり読んだりし
てもそれはその真理の言葉の誤解しかないことだろう。
シャンカラが「熟睡とは至福の意識状態である」というとき、それは「思考を超
えている意識」には確かにそうであるけれども、その高次の意識がない私達には
その熟睡とは、意識が無い状態即ち植物人間状態であるのである。
しかし「思考を超えている意識」がある段階の人にとっては、それは思考が無い
至福の状態であるということであろう。
この現在のこの私の現在意識とは思考であって「思考を超えている意識」ではない。
「思考を超えている意識」に関しての思考は全て誤解であり、間違いで
あるということである。
この現在の私がクリシュナムルティーのいう「思考なく見なさい」を理解して
実行するためには、私達(たましいと繋がっている私)の目を被っている
この現在の私即ち記憶の私、条件付けられている脳の反応の思考が恩寵に
よって「生きながら死を迎える」段階にまで成長する必要があると言うこ
とであろう。
その時はじめて、黒住宗忠のいう元々そこに在る「我の心」ではない「天照らす御
親の神の御分心で在る人の心」が機能し始め、「立ち向かう人の心は鏡なり己の姿
を映してやみん」という言葉を理解出来るようになってくることであろう。