汝自身を知れ・・ソクラテス


私の感想
このソクラテスの「汝自身を知れ」とは歴史に残る有名な言葉ですが
この言葉に含まれている意味は、とてつもなく深淵で、厳しいものです。

私とは誰か?と思索し考えているものとは、誰なのでありましょうか?

通常は人類は単純に私が考えていると・・そう思っておりますが、その私が
思考しているという「その私」とは誰なのか?・・を調べることがありません。
通常私達は私とは何であるのかを思索することはありません。
では、誰が「私とは誰か?」と探求し、思索しているのでしょうか?

それは「私とは誰か?」と質問しているものは、「私は誰か?」と思索して
いること自体から「私」を知らないものです。何故ならば自分が何であるの
かを知っているならば決してこのような質問をしないからです。

但しここで言う「私は誰か?」とは「私は○○国の○○生まれの○○で
○○という経歴や家柄や宗教や財産や才能や特質や性格のものです」と
いうような表面的な質問をしているのではありません。

もっと根源的な意味で「あなたとは誰なのか」「人間とは何なのか」
「私とは誰なのか」を問うているのです。

おそらく私も含めてこの質問に答えることが出来る人は周りを見渡しても
誰もいない事でありましょう。

このような根源的な質問を受けたこともないし、考えた事もないからです。

それ故に私とは誰かと質問しているものとは、自らを知らない「無知」で
あり、その無知とは思考そのものであり、思考とは私という観念の記憶で
あり、この思考が「思考している私」即ち「私が思考している」という錯
覚を生じさせていることでありましょう。

ここではじめてこの「私は誰か?」という質問に接した方は私が中間を
飛ばして話していることに面食らっていることでしょう。

「私は誰なのか?」の事を深く考えた事のない方は私が何のことを言ってい
るのかさっぱり分からないことと思いますが・・・。

誰もが自分の事は一番この私が知っていると思っております・・しかし
私達が知っているこの私とは、自分の中にある記憶の反応であり、その反応
としての思考であり、その感情や欲望であって、それらを自分だと思って
いるものは記憶の反応・・即ち思考自身なのです。


では思考とは何でしょうか?それはこの条件付けられている脳を媒体に
して知覚されている記憶のことで、その中身は「私」「私のもの」とい
うものです。

思考こそが「私とは誰か」と質問し考えているものである・・というこ
とが自己観察を重ねることで徐々にハッキリと見えて参ります。

では私とは、思考とは別の私がいて思考を使っているのでしょうか?
(通常はそう思われておりますが)それとも、その思考それ自体が私な
のでしょうか?

「私とは誰か」と質問しているのは、みずからを知らない思考なのです。自らを
知らないが故に「私は誰か」と尋ねているのであり、自らを知る私は「私は
在る」「I AM I」「万物の中に私はあり、私の中に万物はある」と言う
ことでありましょうから・・。ここで言う私とは記憶が終焉し、自我が消滅した
あとに顕現している「最初から実在している私」「思考ではない超意識の私」
「時空を超えている私」「自他の分離のない私」「遍在している私」「鏡であ
る私」「意識の座」などとよばれている記憶の私には未知なる私の事です。
いのちそれ自体である私の事です。


常識では思考とは別の私が存在していて、その思考とは別の私が質問していると
そのように思われているのですが、果たして本当にそうなのでしょうか?

思考とは別の私が思考を使っているのでしょうか?それとも、思考が私だ
と思っているのでしょうか?
思考とは別のわたしが居て「わたしは誰か?」と思考しているのではあり
ません。本来の面目の私は思考の私にとっては未知なる私であり、思考の私
には知られることはありません。この神の子の私は未だ顕現していないのです。
ですから
この質問しているわたし自身が思考であり、思索し考えている私とはすなわ
ち思考そのものであり、思考とは記憶の反応であるのではないでしょうか?


ですから「わたしは誰か?」と質問し、そのように思考している私こそ
が思考であり、質問し、そして返答している私とは思考の記憶に過ぎないのである!!
・・という事が分かります。・・・それは未知なる私ではありません。
既知なる私は記憶の反応なのです。

「私は誰か?」と思考し、色々と探求しているのは思考自身なのです。

この質問し探求し思考している私とはすなわち思考自身なのです。

思考が、その「私は誰か」を探求し、質問しています。

思考が「私は誰か?」と探求し、思索し、考えているのです。考えて
いるもの、不安で苦しんでいる私とは即、すなわち思考自身なのです。

思考という記憶の反応が「私は誰か?」と思考している本体です。

「自分は自分自身だ」と信じて、思索し、考えているわたしとは
思考であり、記憶の反応なのです。それがこの私自身、人格の私です。

いかに人格が高く、IQが高く、天才で世界を変えるほどの
知性や能力があっても、それは人格の私であり、私という観念
という記憶の反応であり、私(たましいと繋がっている私)を
覆い隠している記憶なのです。そしてその記憶とは私(たまし
いと繋がっている私)が誤って生み出したもので私の責任なの
です。

この記憶である私が毎日の生活を過ごして欲望し、自分を感じ
人を判断し、計画し、行為して生きています。自己関心に溢れ
自分を非難なく観察したことのない人々が、自分自身を知って
いると錯覚しています。記憶を自分だと思い込んでいます。

この表面の意識に表れている、現在意識の私とは、実際には記憶
でありその思考が自分自身のことを「私」であると錯覚している
のです。


思考が思っている私とは思考であり、記憶の反応であるのです。
記憶とは潜在意識にあって、過去からの脳が受信した感情や思考や
感覚や統覚のデータのことです。その記憶が私として自分自身だと
確信している人格の正体です。

そしてその思考が私と言う思考のことを(記憶自身であるにもかか
わらずに)対象に投影して判断したり、評価したり、善悪に分けたり、
敵味方に分割し、みずからを非難し、みずからと戦っているのです。

しかしながら思考には思考することしか出来ないので、このソクラテスの
「私は誰か?」という質問に対しては、思考は思考し、思索することは出
来ていても「私は誰か?」に対して答えることが出来ません。

思考が考えている「私は誰か?」に対する解答とは全てが思考である記憶の
範囲内、限界内であり、「思考を生み出している源泉」からの答えではあ
りません。


思考には思考で見るしか出来ないので、思考なく思考を見ること即ち思考の
全体像を見ることが出来ませんし、クリシュナムルティーの言うように
「思考なく見なさい」を実行することは思考には出来ません。みずからが
思考自身だからです。

それは丁度眼には眼自体を見ることが出来ないように、思考には
思考自身を見ることが出来ないのです。
眼を見るためにはこの肉眼の眼ではない別の目が必要であるように、
思考を見るためには思考ではない目が恩寵によって開眼している必要が
あります。
私自らを知るためには思考ではないハッキリと見える別の目が必要な
のです。

ですからこのソクラテスの「汝自身を知れ」という言葉は、思考には
答えることが不可能な質問なのです。

思考という私達(たましいと繋がっている私)を隠し被っている記憶が
クリーニングされ、私達から払われ清まらない限りはこのソクラテスの
言葉を理解することは出来ません。勿論記憶が答える事は全てが間違っ
ています。

それはクリシュナムルティーの「思考なく見なさい」という事が起こる
ためには、人格という記憶の死即ち記憶のクリーニングが起こる必要が
あると言うことです。それには絶対的に至高なる実在からの
恩寵が必要であると言うことであります。

この質問に答えるためには、そしてクリシュナムルティーの「思考なく
見る」を実行するためには、至高なる実在からの恩寵が必要でありましょう。

そしてその恩寵によってこの人格の私の死、即ち記憶がクリーニングされ
思考を超えている意識が顕現したときに、沈黙の中にソクラテスの質問への
解答が自ずからやってくると言われています。


以上の事から、ソクラテスの「私は誰か」の質問に対しての回答は思考には
出来ないということです。人類に思考を超えている意識があるということの
理解が起こらないりはこのソクラテスの質問に答えることが出来ません
・・・というのも私達現在のレベルの人類が行うその質問に答えているものとは
思考であって、思考とは真の意味での私ではないからです。

私(たましいと繋がっている私)の自己意識が顕れる為には、この既知なる
記憶の私は清まらなければなりません。私は払われクリーニングされる必要
があります・・即ちこの人格の私は死ななければなりません。


記憶という人格の私が払われ清まりクリーニングされ死ななければ、私(たま
しいと繋がっている私)が顕現できないのです。キリストの言うように
(肉体の死ではない)「霊によって新たに生まれ変わる必要がある」のです。

シャンカラが言うように「人は死ぬために生きてる、だから私達は生きるこ
とが出来るためには死ななければならない」のです。

・・・これを書いている私も読んでおられるあなたも思考であって、記憶
の反応であり「記憶ではない魂からの私」ではありません。

「思考を直視観照できる目」である私が生まれるためには、ホ・オポノ
ポノの言うように、記憶が恩寵によってクリーニングされる必要があります。


クリシュナムルティーの言うように「思考なく見る」ためには自己の死が
絶対に必要であり、それは記憶の私が思考に依って到達できることではな
いのです。

それは厳しい弛まざる自己観察を通じて「虚偽を虚偽と見ること」の経過を
経て「虚偽の中に真理を見る」段階を経る必要があります。

「虚偽の中に真理を見る」とは、キリストの言う「汝の敵を愛せよ」であり
記憶に、そしてこの私に愛を捧げ、万物一切に感謝することでありましょう。

その自己である記憶(私)がクリーニングされるためには恩寵が必要であります。

そしてその恩寵が起こるためには絶え間ないクリーニング、即ち絶え間のない
「自己観察」、一切万物への報恩と感謝そして絶え間なく一切の万物、それは
命あるものや命ない物に対する限りない愛を捧げることが絶対必要条件です。

そしてその絶え間のないワークを通じて至高なる実在からの恩寵により、記憶が
クリーニングされることがやってくるのではないでしょうか!!!