1・ブラフマンの智者は、内も外もすべてが実は、最高我・パラマートマーであることを見ます。

 水が二つに別れて見えているだけです。

 内と外という感じがするだけです。

 「私」という瓶があれば、そのような内と外という二つを見ている意識になってしまうのです。

 その「私というもの」が、もし消え去れば、そうすれば、あるものがあるだけです。

 

 

2・人は純粋精神によって動いているのです。

 その純粋精神によって、非精神的物質に至るまで精神(有実在・知叡智)になっているのです。

 その純粋精神によって手も足も、身体も動いているのです。

 人は身体が動いているのだと言いますが、

 しかし

 あのお方(神)が動かしておられるのを知らないのです。

 

 

3・人は感覚器官などが、それぞれ自らの力で働いて動いているといいます、

 しかし、内部にあの純粋精神であるものが有るということを考えません。

 

 

4・この「私」・自我とは、あのお方自身が置いておかれたのです。

 この自我・私とは、あのお方の遊び、

 あのお方の遊技です。 

 

 

5・前に進めば進むほど、神の形(限定的制約)を見ることが少なくなります。

 近づけば近づくほど、神の属性(マーヤ)は減っていくのです。

 更に近づけば、そのときには、光の中に光を見るだけで、もうどのような限定的

 制約(形)もありません。

 

 

6・神に心を置く、そのような人こそ真の人間です。

 更には、神聖な意識を持つ人、たとえば、神の意識のある人、純粋精神に目覚めて

 いる人、そのような人たちは、神が真実で、その他一切は無常である。

 と、間違いなく知っています。

 

 

7・あのお方は、あなたの見ているすべてになっておられるのです。

 

 8・あのお方は常住不変ですが、実は現象界とは、あのお方のリーラ・遊戯です。

 あのお方のリーラ・遊戯が、実は常住不変のあのお方なのです。

 絶対者を除いて、相対界(神の創造・宇宙の顕現は神のリーラであること)を理解

 することは出来ません。

 相対界があるからこそ、それらを棄てていくことによって、絶対者に到達すること

 が出来るのです。

 

 

9・私という意識があるあいだは、どうしても相対界(転変の世界)を棄てることは

 出来ません。

 これではない、これではない、と否定を重ね、

 瞑想のヨーガによって、人は実体・ブラフマンに到達することが出来るのです

 

 

10・世界は、あのお方そのもので満ちあふれている。

 見るもののすべては、あのお方自身がなっておられるのである。

 その中のどれを捨て、どれを受け入れたらいいのかと、決めることなどは出来ない。

 

 

11・あのお方ご自身がすべてなのです。

 神は自ら生きもの、宇宙、それらすべてになられたのです。

 完全なる神の叡智を持つようになれば、そのときには、そのように知り、認識し

 ます。

 あのお方が、思考機能、統覚機能、(器官を伴った)身体-二十四の宇宙原理すべ

 てになっておられるのです。・・・ラーマクリシュナ


私の感想


呼吸する肺は神のものであり神が創って神が呼吸しておられます。

鼓動する心臓は神が創って神が脈動されておられます。

内蔵も神経も骨も筋肉も血液も神が創って神が生きておられます。

驚くべき三つの脳は神が創って神が使用されておられます。

条件付けられている脳から生じた記憶を使用して神が生きておられます。

神が神聖なるマーヤを用いて「私という錯覚」を生み出し生きておられます。

感覚や知覚や意識は神が創って神が知覚し認識しておられます。

肉体や諸体や自己意識は神が創って神が行為されておられます。

私という錯覚を神が生み出し神がそれを使って生きておられます。

私もあなたも神のもので、神が創って神がご使用になっておられるのです。

私とは神が演じておられるのです。

私とは神が使用している「自己意識」なのです。

敵や味方も、殺すものも殺されるものも、生まれるものも死ぬものも神です。

楽しむものも、苦しむものも、健康も病気も老化するのも神です。

愛するものも、憎むものも、健康も病気も善も悪も神が演じています。

蛇も蝶蝶もゴキブリも九官鳥も熊も犬もネコも神が演じています。

神が万物一切であり、万物一切は神です。実は全ては神が生きておられるのです。

それなのに「神聖なるマーヤ・私」という錯覚によって内も外も全て

は神である・・という真実が見えなくなってしまっているのです。


・・・とラーマクリシュナは言っておられるのでありましょう。