実際の日々の生活の中で、関係の鏡の中で、心の中に実際に起こり


つつある事を観察し、学び尽くさなければならないのです。


否定したり、制御したり、変えようとすることなく、それを調べ

それについて学び、その内容全体について気づいていなければな

らないのです。


日々のあたり前の関係という鏡の中で、私は自分自身を観察し

理解していくことが出来ます。

その鏡を通じて自分自身を見守るとは、絶えず油断がなく、自身の中に

起こりつつある事に注意深いと云うことです。それ故にあるがままの

自分を見るためには非難があってはなりません。

非難するなら、けっしてそれを理解出来ないでしょう。


あるいは受け入れ、肯定することも理解へ導く道ではありません。

進行するあらゆる出来事、外側のあらゆる挑戦、あらゆる経験に

対しての内側の反応の全てに気づいていることです。


あなたは、そこへ映し出されるどんなものも非難する感覚なしに

この関係の鏡の中で自分自身を見守ると云うことが、いかに並外れて

難しいことであるかを知ることでしょう。

あなたが自分の見るものを非難するなら、その理解はありません。

いま現にあるものを理解するためには非難、正当化、判断、価値付け

が去らなければなりません。


そのとき、あなたが遙かに進むのならば、心がもはやどんなイメージも

投影しておらず、どんな観念も編み出していないことを知るでしょう。

こころはそれ自身の全体を理解し始めつつあり、従ってそれは非常に

明晰に、単純に、静かになります。


そして、その発見そのものが自由の始まりであり、変容の始まりなのです。

あなたはそれを、あらゆる日常生活の関係を鏡として、自分の意識の中身を

観察し理解することによって見いださなければならないのです。


あらゆる関係が心それ自身の有様を写し見る事の出来る鏡なのです。


関係は私と外界の間に、私と他者の間に、私と私の感情の間に、私

と私の思考の間にあります。

その関係の鏡の中で、人は実際にあるがままの自分自身を見ること

が出来るのです。

判断することなしに、非難することなしに、ただ見守ることが出来

さえすれば・・・・。



自分の思考・感情の過程に充分に気づいていること、そして、その過程から

解放されていくことこそが瞑想です。

あなたが歩き、話し、本を読んでいるとき、あらゆる瞬間に、努力なく、

あなたはあなた自身を観察できるのです。


そのとき、心が経験し、蓄積してきた全ての物事から、それ自身が

解放される可能性が出てくるのです。

瞬間、瞬間、みずからのなすあらゆる反応-あらゆる思考

あらゆる感情に気づいていられるのならば、関係の中で自己の

実態が理解されていくことでしょう。

その時、その心の静寂の中に-究極の実在が生まれ出る可能性

が出てくるのです。

これはあなたが自分自身を、外界、他者、思考、感情などとの

関係の中で徹底的に見守らなくてはならないことを意味します。

条件付けの全過程を本当に観察しなければならないのです。


それは絶え間のない気づき、絶え間のない調査、絶え間のない観察の

事柄なのです。


関係の中でひとは自分自身の実態に気がつくことが出来ます。

その時、この広大な恐怖の問題に気づくことでしょう。

思考・心が常に確かさ、安定、安全を求めて運動している有様を

見ることでしょう。・・・この安全安定こそが私たち全てが求めている

ものです。

完全な安定・・心理的な事実として思考と言う心の中にそのようなもの

はありません。


愛や善性や叡智は、ただ関係の中でのみ働くことが出来ます。

全ての存在が関係の中にあります。

ですからまず必要なことはあらゆる事物、人との関係に気づく様に

なる事です。そしてこの関係の中で、どのようにして私が生まれ

私が働いているのかを見ることです。分離を生み出すのはこの私なのです。

天国をそして地獄を作り出すのもまたこの私なのです。

このことに気がつくことはそれを理解することであり、そしてその理解

がそれを終わらせます。


この終焉の中に善性があり、愛があり叡智があるのです。


・・・・クリシュナムルティー



私の感想

知覚と認識とは?知覚と認識という仕組み、このシステムの構成実態
とは?
この見る者と見られるものに分割して知覚認識している「思考の記憶」
とは何かをクリシュナムルティーは示してくださっております。

思考が知覚し認識することが可能なものは、記憶思考という自分の中に
あるものに限られます。

書籍などでも分かるように聖者の目には神のみを知覚認識している
のです。聖者の目には現象を成立させている実相の完全完璧さのみを、
神の臨在を、神が全ての全てで在る事を見ているのです。

そして
自我には自分の中にそして相手の中に自我しか知覚認識できないのです。
そして自我はみずからを非難し、みずからから逃避しようとしています。


人の思考は自分という思考の中にあるものしか知覚認識できないから
なのです。

そもそも対象として知覚認識が出来るものとは、それを知覚認識する側
にあるものに限られています。自分の中にないものは内部にも外部にも
知覚認識することができません。

私が自分の中と、相手の中に知覚認識出来る悪や、自我や、思考や感情
とは自分の中にあるものであり、自分にあるものしか知覚認識すること
は出来ません。それは葛藤を見ているものはその葛藤なのだということ
です。

記憶が記憶を知覚認識しています。
思考が思考を知覚認識しています。
記憶・思考が記憶している私やあなたとは私の中の記憶・思考自身なのです。
そして、その私の中にある記憶とは私が産みだしたもので、私の責任な
のです。

それなのに、人は目の前の相手という鏡に映っている自分の姿を相手だと
思い違いして相手のことを非難し、「悪いのはおまえだ」「お前は自我だ」
「お前らはテロリストで敵だ」と自分を非難しています。

テロや戦争や虐殺を見て知覚認識できるのも自分の中にそのテロや戦争や
虐殺があるからです。「見るものは見られるものである」からです。

自分や相手にエゴの自尊心や高慢や狡猾さを見ているものは、自分を
占領し支配しているその自尊心や高慢や自我や狡猾そのものなのです。


私達はこの記憶に占領され、自由というものは全くありません。
記憶の奴隷になっています。思う事も、行うことも、感じる事も
五感も知覚も認識もそして表面意識そのものも、この分離、分割に
完全にコントロールされ支配されて自由は全くありません。

自由は全くないどころか、その自由が全くないことにすら気が
ついていません。奴隷が奴隷であることに気がついていないのです。

人は自分の中にあるものしか知覚できません。自分の内部にあるものを
対象として知覚認識することしか出来ないのです。

思考に限定されている現段階のマインドは、自分自身のなかにあるもの
しか知覚認識できません。「見るものは見られるものである」のです。
その自分の中にあるものを自分自身と相手として非難し、逃避しようと
しています。

相手や自己の中に恐怖と暴力と競争や高慢を見ているものは、その同じ
恐怖であり、暴力であり、競争であり、高慢そのものであるのです。

私を覆い尽くし、私を染めている記憶や思考即ち私(私という観念)は
自分自身を主体と客体に分離分割し、見る者と見られるもの、観察者と
観察されるものに分割しています、そしてみずからを分離して自分自身
を対象として知覚認識しているのです。
そして自分を非難し、自分から逃避しようとしています。

・・・とクリシュナムルティーは教えておられるのではないかと思います