私の感想
このクリシュナムルティーの言葉を知って早くも50年以上が過ぎたが、おそらくこの言葉
を理解するのには、これからも幾何回もの転生を必要とすることだろう。クリシュナムルテ
ィーの言葉を理解するためには彼と同じように思考と行為を観照している「目」の段階に
まで至る必要が有るからである。
クリシュナムルティーのこの言葉の立ち位置はどの意識レベルから発せられているのであろうか?
少なくとも私達地球人類の知性や理性のレベルではないことだけは確かである。
彼は輪廻転生を語らなかったし、死後の生に関しても問題にしていなかった。生死や失敗や成功
また願望成就や肉体に関しての健康や病気への関わりを一切言及しなかった。
彼は輪廻の枠外からの立場から究極中の究極のみを語りかけていたのである。
彼の語り口は一般的に平易であったが、諸体や超知覚や霊魂に関しても神に関しても話さなかった。
彼は一貫して究極なる実在のみに焦点を当てて、そこから私達に語りかけていたのである。
クリシュナムルティーの言葉を理解するためには「思考と行為を見ているものは思考と行
為である」・・という通常の意識を超えている「超意識状態」の目による非分離の直接の理解が
必要なのであろう。
・・・これは、一般常識や通常の世界人類の歴史や文化からは全く訳が分からない主張の
ように思えることだろう。しかしながら、これは記憶の反応という思考だけの範疇を生
きている現在の地球人類にとっては夢のまた夢、全く想像も、思い馳せる片鱗すら
も出来ない高次元からの思考や知性を超えている「目」の言明なのである。この地球文明
の進化段階では、そのような目が存在することの片鱗すらも気がつかないことだろう。
地球文明は脳を媒体にして起こっている記憶の反応・思考しか知らないのである。
現在のこの私はといえば思考と行為に染まりきっており、自分が思考し行為しているという
実感から抜け出せないで喘いでいる・・自分は目覚めていないどころか、目覚めていない
と云うことすらにも目覚めていないのだ。
それは思考と行為を見抜いていないからであろう。この私は思考と行為を見たことがなく、
思考と行為を愛したことがないので、思考と行為は起こっているという現実・・そして
それに対して記憶が反応している・・この現実のことを「識別」出来ないでいるからであろう。
私達は通常、思考と行為を見ているつもりであろうけれども、実際には思考と
行為に巻き込まれているに過ぎないと云うことに気がついていない。
思考と行為を正見(照見)するためには「私が思考と行為であり、思考と行為を
見ているものは思考と行為である」という愛の目が必要なのであろう。
思考と行為を観察している観察者を見ているのは思考ではない「魂と繋がる意識
である」と、それはクリシュナムルティーは「気づき」と云っている超意識の事
である。その「気づき」の超意識はこの文明や知識や情報や権威によっては全く
接近することは出来ない。
その内なる魂と繋がる意識が誕生するには・・それには恩寵によるしか方法がない・・
のではないか。
思考と行為を正見(照見)するとは思考と行為を愛することであり、天地万物一切に
感謝し、全てを受け入れることであろうか・・・思考と行為を愛し感謝することが
思考や行為を理解することであり、そしてそれこそが天による恩寵、恩恵によって
思考と行為を超えていく道なのではないか?・・・これは「言うが易く行うは難し」
の茨の道でもあろう・・その時ヒューレン博士の云うように「世界のテロリストや
大統領の責任はこの私にあります」と言えることだろう。それはクリシュナムル
ティーがいう「私は世界です」「世界の責任は私にあります」の超意識であろう。
思考と行為を見たこともなく、理解したこともなく、愛したこともなく、観照も
していないため、そして、それゆえに、そこから自由になっていないのが未熟な
見習い初心者であるこの私、久保栄治である。
改めてクリシュナムルティーの言葉をじっと静かに傾聴してみよう。
「行為者はいない行為が起こっているだけだ」「思考者はいない思考が
起こっているだけだ」。
それは思うに、思考と行為が起こった直後に、「私が思考している」「私が
行為している」という思考者と行為者即ち「虚偽の私=記憶」が形成され
さらに過去からの記憶(エゴ・自我)がその起こっている思考と行為に対
して条件反応しているのであろうか?
この事は脳の最新の科学からも解明されていて、行為が行為者を生み出して
いて、行為の選択や決断や意志は行為が起こった直後に発生しているのにも
関わらず、脳はそれの時間系列を逆転させて、行為の選択や意志がまず行為の
前に起こって行為をしているように知覚認識するように条件付けられている。
行為の後に行為の意志や行為の選択は起こり、そしてその行為の行為者・・私
という虚偽が発生しているのである。
肉体に入った魂は行為には関与していないにもかかわらずこの錯覚に囚われ
てしまい、私が行為していると信じてしまっているのである。
思うに知覚や認識も記憶の反応も、思考や感情や行為と同じく、また主体
と客体の分離対立と同じく、それらは「わたし」から起こっていることなので
あろうか?
そこでクリシュナムルティーは言う、これを観照して理解しているのは
思考や行為ではないと。それは思考ではない「気づき」であると。
それは体験や経験ではないと・・何故ならば体験者や経験者という自覚
とは体験や経験と分離している主体が有ることを前提としており、その
体験者や経験者という自意識がある限りは客体を経験するという、主体と
客体の二元分離対立の段階であるからであるといわれている。
自分や相手や世界を対象として見ている目、他者や世界を自分とは分離して
いる対象として見ている目・・
それはその目はエレブナの言うアチューメントの段階に達していない者の目
即ち「思考」の目であろう。
それはホ・オポノポノの云う記憶の目であり魂の目でないことだろう。何故
ならば魂の目は、現在のパーソナリティーを見ているからであると。
多くの道があり、それぞれの段階でそれぞれの言葉で以て覚者達は人類に
話しかけているために、私達はその言葉がどの次元からの、どの段階からの
言葉なのかを理解することが出来ない。
またそれぞれの地域で、時代背景が異なる中で異なる言語で語られるために
真理は一つであるけれども、表現が異なっているために、また語られる方の
特徴や立っておられる見地が異なるために私達は混乱し消化不良を起こして
しまうのである。自分の発達段階に応じて教えを選ぶべきである。
老子やクリシュナムルティーやシャンカラ等の方々は思考や行為を超越している
不二一元の根源の目から語りかけているので、私達のすぐ側の次元からの教
えの方が私達にとっては理解しやすく納得が出来ると言うものであろうか。