「本来、姿なきが活物(生命・活仏)と申して、人間の本体でござるのに、


人は取り違いをして、何時消えてしまう身体をば生き物と思いたがる癖があ

る故、神仏などはみな死物と考え、只々、影にも等しきこの身体の命のみを

惜しがって、本体の姿なき心のいきものを殺しているが、まことに気の毒と

申すほかはない。

影の命に囚われて、姿なき心を養うことをしらぬというは、まことに本末転

倒を弁(わきま)えぬ迷いと申すものでございまする」「天地はいきもので

ござる」「神仏ひじりというもあめつちの誠の中に住めるいきものでござ

る」「弘法大師その他の諸々の古仏はみないきものであり、貴方も皆本体

のいきものをもっておられるるにかわりはありませねから、一心成仏とお極

めなされば、そのまま成仏うたがいありませぬ」・・黒住宗忠



※私の感想

大生命(いきもの)が全てになられているのであり、私達のこのここで息をしておら
れているのである。息をして血液や内臓や筋肉や神経として生きておられるのである。
生きているこの私とは記憶の反応という「我の心」ではなくて神の分け御霊であり、
すべてである大生命そのものであることを悟れば、
私は大生命であり、大生命とは全て一切であり、一切のすべてが大生命であり、この私
も大生命で在って、大生命がここにこうして生きているを知ることが出来ると。

そのとき、私とは肉体ではなく、記憶の反応でもなく、息をしておられる大生命
であり、私は万物の中にあり、万物が私の中にあるとの覺知が生じるならば
何かになることもなく、何かを獲得したり、何かを支配したり、何かに到達すること
も必要なく、何かを為す必要もなく、既に、ここにこのままで私とは大生命であり
全体であり、大生命がこうしてここに生きておられて全てと一つで在ることを悟
ることであろうから・・

「目標」「理念」「到達」「計画」「拡大」などという一切の努力や執着、そして
善悪、判断、葛藤、競争、愛憎、不安、恐怖、自己が脱落し、なろうとすることも
なくなり、なにかを成し遂げて何かをしようとすることもなくなるであろうから・・

本来の自己の「ああ嬉し、楽し、有り難い」「ああなんと面白い、美しい、愛しているよ」
が自然に心から溢れ出てくるという。
このままで良いのだと、すべてのすべてを感謝して、全ての全てを受け入れることで
あろうと。

黒住宗忠はそれ故に、そのためには、この心に対して「ああ嬉し、楽し、有り難い」「あ
あなんと面白いことか、ああなんと美しいことか、ああ愛しているよ」という心を育てなさい。
心に対していつもいつも、その言葉を唱えなさいと教えておられる。

親鸞聖人の「一向専心、心を以て心を養う」である。