『口に入るものは人を汚さず、されど口より出づるもの


は、これ人を汚すなり』・・イエスキリスト


通常世間一般常識では、私達は自分の自由意志で意志し、自分が考え、自分が質問し、自分が思い
、自分が感じて、自分が行為していると実感しているのですが、それらは、実は私達の潜在意識の
中にある記憶が行っているのであり、それらの思考と感情とは私達である「意識の鏡」に表れてい
る記憶の反応であり、それらが私達自身の思考や感情や欲望だということになってしまっているも
のであります。それらとは聖書でキリストが言う口に入るもの(思考・感情・行為)であると言う
ことであります。



その潜在意識の記憶とは、私達の人生に於いて脳に起こった行為と思考と感情や欲望のことであり
脳で受信したその起こっている行為と思考と感情と欲望の記憶のことであります。

 

それはまた観点を変えればその記憶そのものが「私・自己・自我」という思考のことであり、
シャンカラ達によって私という観念と言われている「私・自己の観念」であります。
その脳を媒体にして形成された記憶のことであり即ちこの私、「この人格の私」、即ちこの私自身
のことでもあります。

 

この記憶の私自身が表面意識で意識され、意識の座の全てを被っている限りは私達には自由はない
のだと聖者は言われます。


この記憶の私は、脳で起こったまたは脳で受信された「私という観念」の記憶のことであり
この記憶が起こっている事の全てに反応しているのであります。
その記憶がカルマによってDNAによって起こっている行為や感情や思考や出来事に対して
反応し、この反応が更なる行為と感情と思考を起こしているのであります。

 

ここでいう、この私とは脳で受信した私という観念のことであり、キリストが言う私達の
「口に入るもの」というものであり、この私の実体とは私たちの意識の座で知覚されてい
る記憶の思考と感情のことであります。

 

それらはカルマから、またはDNAから正確に起こっていて、魂と繋がる私の表面意識意識
(これは私達の段階では殆ど機能していないが)に映っているものであり、それらは「意
識の座」(意識)の表面に記憶から投影されているもの(口に入るもの)でありましょう。

 

畢竟、それら記憶の思考や感情や行為とは脳の条件付けからのもの(記憶)でありましょう。
それら記憶とは既に決定されているものであり自由がないものであります。

が、しかしこの記憶は脳ではなくて肉体ではない身体に(潜在意識)にあるので、さらにその潜在
意識の記憶から
今度は行為を起こすのであります。

 

そして現在の地球人類とはそれらの記憶からの思考や行為、即ちそれが私という人格の私の
ことですが、その記憶の私に私達、未知ではあるが「魂と繋がる私」は、その記憶と同一視し、
一体化してしまっているので「魂と繋がる私」は記憶の人格が行うように行ってしまっている
というのです。

ここは非常に複雑です。

 

・・・それをキリストは私達の「私の口から出るものが私を穢す」、と言っておられるのであ
ります。

 

その記憶のことをエレブナでは「魂からの私」が同一視してしまっている記憶の私・人格の私だ
と言っておられるのでありますし、キリストはその人格の私のことを「唖と聾」だといっている
のでありましょう。

 

この人格の私こそがミルダッドが言う神の子の私を覆い隠している私のことでありましょう。

 

それに対して霊的諸体からの正しい思考と正しい行為が求められているわけです。

 

 

このことを再度復習しますと

通常、私達「魂と繋がる私」の思考体や感情体が未だ未熟なので、正しい思考と正しい行為をす
ることは殆どなく、その反対にこの記憶の反応、脳の条件付けの結果であるこの記憶のことを自
分自身であると信じているのであります。

そう信じているので記憶が思うように魂と繋がる私も思ってしまいカルマを創ってしまいます。
そう信じているので魂と繋がる私は記憶が行っているように行為してしまっているのです。

 

私達は記憶(人格)が思うように自分も思ってしまい、そして、同じく記憶(人格)と同一化し
ているので記憶が感じているように感じ、考え、決断し、行為しているのに、自分が感じて、自
分が考えて、自分が決断して自分が行為しているのであり、「魂と繋がる私」は記憶と同じよう
に思い、そして記憶と同じように行ってしまっています。

 

が、その思考や行為とは実は私たちの意識(鏡)の表面に起こっている記憶(人格)の反応であ
り、キリストはこれらの記憶の反応のことを「口に入るもの」と言われております、それは決し
て口にする食物なのではありません。

 

 

キリストはその記憶の反応に対しての私達(魂と繋がる私)の意識のあり方や行為のことを「口
から出でるもの」と言っているのであります。霊的諸体による正しい思考と正しい行為が厳しく
求められているのであります。

 

私達の人格とは脳が受信して形成された私達の潜在意識にある記憶のことであり、
それがこの現在意識を「占有している私」の事であります。
しかしこの私とは、真実に於いては私達自身なのではなくて想念形態、それは即ち「魂と繋がる
私達」が誤って記憶と同一化したことで私達が創り出したエレメンタルだといわれております。

 

私達は毎日の日々の生活の中で通常は、何ら疑問を抱くことなく、私達はこれらの記憶の反応と
完全に同一化してしまっております。

 

同一化してしまっていると言うことに気がつくことは決してありません。
そうして地球人類の文化や教育や科学や国家が形成されたのです。

そして魂と繋がる私は殆ど意識化していないので記憶が自分は自分だと信じて生きています。

その様にして魂からの私達は決して目覚めることなく輪廻の中を生きているのですと。

 

従って通常の私達の思考や行為とは(口から出るものとは)、私達が一体化してしまった記
憶の思考と行為だけであります。
それはまさしく自我エゴであり、悪臭と穢れと恐れと希望と絶望、善悪の判断で一杯なので
あります。

何故エゴなのでしょうか?
それは私達は自他が分離していないのに私とあなたは分離していると錯覚しているからです
それは私達は外部は内部なのに、内部と外部を分離し
私達は一切の万物と分離していないのに、私は万物ではないと感じているのです
その無知が恐怖であり、苦しみであり、痛みであるエゴなのです。
 

私達、魂と繋がる私の意識を占有しているものとはこの記憶であり、人格であります。
相手とは私なのに相手を非難し、決して相手とは私であることを知らない記憶・自我なのです。

 

そういうことで、私達の現況はといえば、私達は全く記憶と一体化してしまっているので、
そのこと自体に、全く気がついておりません。
私達の現在意識は記憶に殆ど全くと言っていいほど占領されているからです。
自分だと思っているのは記憶なのです。
私達が考え、感じ、行い、願い、思う事の全ては記憶が行っており、私達は記憶に占領さ
れているのです。

 

それは私達の意識(神道での四魂・霊的諸身体)そのものが未開発・未形成で幼稚である
からで、正しく思考し、正しく行為することが出来ないのですと言われております。

 

では、正しい思考と、正しい感情と、正しい行為とは何でありましょうか?

それは記憶と同一化しないことであります。

では記憶と同一化しないと何でありましょうか?

それは記憶が私達の思考と感情と行為を支配しているので

何もしない。

何にも求めない。

何も願わない。

何にもなろうとしない。

何も欲しない。

何処にも行かない。

何も考えない。ただ観る。

何も思わない。ただ在る。

何も望まない。

何も努力しない。

思考や感情や行為と決して同一化してはなりませんと。

ただただそれらの記憶の行う、「成る」「する」に同一化しないで

いまここに実在すること。「あるがままにただ在ること」だと教えられております。

 

 

ですからキリストがここで言う「口から出るものが人を穢す」と言っているのは、この意識・
鏡に去来して、起こっている記憶の反応に対しての「意識である私達自身」の態度のことを
言っているのであります。これは霊的諸身体の有り様を言っているのであります。

 

しかしながらこの魂と繋がる私は殆ど意識されることがなく眠ってしまっているのです。

「なる」「する」という記憶の動きに対して、ただただ「在る」のが八正道なのでありましょう。

私達が思考と同一化しないで記憶・思考から離れることが「在る」であり、それが正しい思考と
行為なのでありましょう。

 

いま現在の人類は殆どがこの意識の座に起こって去来している記憶の反応と同一化しています。
それは私達の意識である諸体(四魂)が未形成であり充分使用されておらず、浄めること、養う
こと、成長させることをしていないからですと。


私達は私達の幸身魂や奇身魂を成長させることができないのです。
従って見ることも出来ず、正しく思考することも出来ず、正しく自分自身であることが出来ないのです

 

ということで私達は当然のことながら魂と繋がる私自分である意識と記憶の反応とを同一視してし
まっているのであります。

 

キリストは、この意識の座(鏡)に去来する記憶の反応に対しての私達の現在の態度とは、記憶と
の同一化をしている状態であり、それこそが自身を穢しているのである言っているのです。

 

それはまた、黒住宗忠のいう「それ人の心は天照大御神の御分心にして我が心にあらざれば、人の心
を傷むるとは天の心を傷むるなり、人の心を養うとは天の心を養うなり」であります。

 

黒住宗忠とは四魂の大元である直毘・直日・直霊が顕現しておられる至聖の方であります。
黒住宗忠は「立ち向かう人の心は鏡なり己の姿を映してやみん」と私達に真実を伝えております。

 

この言葉を理解するには私達が直霊と一体になっていなければなりませんが、私達は霊的諸体の高次の
心を使い、正しく思考し、正しく念じ、正しく行ずることは出来るのです。
正しく思考し、正しく念じ、正しく行うというのは、何にもならず、何も求めず、何処にも行かず、
一切万物すべてをただただ愛すると言うことでもあります。

ありがとうございます、愛しているよと隙間無く念仏することであります。

 

その黒住宗忠という直霊とひとつになった方の立場から見れば、私が見ている相手・対象とは私自身
なのだといいます。
私を殺そうとして襲いかかっている敵とは私自身なのですと、私の前にいる化け物や敵意のある悪人
とは私自身なのですと。会社や家庭や近隣のどうしようもないその相手の人とは私なのですと。
相手とは私自身なのですと。
ですから相手を変えるのではなくて自分を変えるためには私は私を愛さなければなりませんと。

 

私達は未熟ですからその真理を理解出来なくても、正しく思考し、正しく念じ、正しく行うことは
出来るのであり、それをワークする必要があります。
それが言霊を使う念仏であります。

 

本来の私達とは意識と言う鏡に去来している思考や行為をしている私では決してないのだと、私達は
それを観照している意識であり、鏡であり太陽(天照御祖神)を顕す意識そのものであると。
であるので、その直霊と一体になる事は可能なのですと言われております。

 

悲しいかな、私達意識は記憶と一体化して自分を穢してしまっているのであります。

 

では一体どのようにして毎日を生きれば良いのでありましょうか?

 

聖賢方は、私達に対して「汝の敵を愛せよ」と、記憶に対して私達の持っている正しい思考と正しい
行為を使役して愛をもって接するように私達に対して教えておられます。

 

この記憶に対しての態度・・それは記憶と同一化してしまうのか?それともその記憶を浄化するために
その記憶を愛するのか?その選択が意識としての私に求められているのですと。

 

記憶と一体化して、自分を傷めてしまうのか?それとも自分を成長させ正しい思考と正しい感情と正し
い行為を養うのか?霊的諸身体を成長させるのか?

 

では記憶に対して正しく思い行うとはどういうことなのでありましょうか?

 

それは全ての全て内と外の一切を愛することでありましょう。

 

その愛とは受け身ではなくて積極的な愛の行為なのであり、積極的な意識の行使、正しく思考を使用する
ことであると言われております。

 

それは全て一切を愛すること、記憶に対して愛を捧げることだというのであります。
万物に感謝し万物を愛し、自己に感謝し自己を愛し、肉体に感謝し肉体を愛することであります。

 

通常では、私達はその記憶の反応である私・人格と一体化していて、常に相手や世界を対象として知覚し
ており、自分はその相手・対象とは別の知覚主体である・・・とその様に全てを分離分割し二元の知覚認識
をしております。
・・・それは私達魂と繋がる私ではなく記憶の反応なのです。


見る者と見られるものは当然別々の存在だと確信しております。
肉体も自分の肉体であり、自分の対象として肉体を観察しているのは記憶であることを気がつきません。
私達魂と繋がる私とは肉体を生かしている大生命と同じいのち=神の子なのです。
それなのに自分はいのちではないと信じ込んでしまい、それは記憶の無知と一体化していることに気が
つきません。

 

そういうことでこの魂の高次の知覚によれば、対象を二元的に見ている現在の私達のこの知覚とは記憶・人格
の知覚であって、高次意識による正しい知覚ではないというのです。

 

それをクリシュナムルティーは「見るものは見られるものである」と教えておられます。主体とは客体であると。
私はそれであると。

またクリシュナムルティーは「恐怖を見ているものは恐怖であり、そのことを理解している中に愛が現れる」
と言っております。

 

これは相手を見ている私とは、その相手であり。私がその悪を見ているのではなくて悪が私だと言うこと。
それは同じく私が世界を見ているのではなくて世界が私であると言うこと。
私が敵を見ているのではなくて敵が私であると言うこと。

 

同じようにヒューレン博士は相手とは自分が投影しているのですから相手を癒やすのではなくて、私を癒やす
のですと。世界を変えるのではなくて、世界は私の投影なのですから私を癒やすのですと。クリシュナムルテ
ィーと同じ事を教えておられるます・・・これらのことがらは、二元分離という記憶の思考によって完全に支
配されてしまっている私達人類には思った事もない突飛で非常識な考えのように思えますが。この真理こそが
内なる魂の目からの観ている真理なのでありましょう。

 

 

 

では、もし「私達の知覚は記憶でありそれは無知であり、錯覚なのである」というこのことを頭だけではなくて、
ヒューレン博士のように本当に腹の底から理解しているならばどうなるのでありましょうか?

 

この正しい知覚それ自体が記憶からの解放を齎すのではないでしょうか。

 

正しい知覚とはクリシュナムルティーのいう「思考なく観る」と言うことから齎されることでありましょう。

 

また、この記憶の人格の私とは私ではないと正しく知覚しているのは誰でありましょうか?

 

それは即ち・・・これら虚偽を虚偽と見ているものは誰かと言うことでもありますが。

 

それは当然、虚偽を虚偽と見ているものとは虚偽ではあり得ず、それを看破して観ているものとは記憶の反応
ではない意識、四魂の意識を超えた大元の直霊であることでありましょう。
エレブナ的に言えばコーザル体を介した霊魂の意識なのですと。

 

虚偽を虚偽と見ているものは記憶の反応ではない高次の意識。それは働き出した意識の座・鏡である霊的
諸身体の意識なのでありましょう。


観察者を観察しているものは魂と繋がる私でありましょう。

 

それは記憶が産み出した人格の私ではない私でありましょう。

 

これが魂と繋がる私の意識であり、朧気ながらも徐々に自分自身に気がつき始めている意識自体であるこ
とでありましょう。

 

神道で言う四魂が形成され始めたのであります。

 

ここでこの正しい高次の知覚からの真実をクリシュナムルティーは「観察者は観察されるものである」と言
っています。
「見るものは見られるものである」と言っております。
主体は客体即ち対象であると言っております。
「私はあなたである」と言っています。・・・これは魂の根源からの真理でありましょう。

 

ヒューレン博士もクリシュナムルティーと同様に世界は私の中にあり、世界とは私の責任だと言っているの
であります。・・私が作り出したからです。

相手とは自分の責任なのです。と

 

両者はともに「見るものは見られるものである」と言っております。
この「正しい高次の知覚の中には私は存在していない」と言うのです。あるがままがあるがままにあると言うのです。

 

これは主体と客体、私が見ている相手や対象は一つであると言っているのでありましょう。

・・・この知覚とは魂の大元による高次知覚なのではないでしょうか。

 

この高次知覚とは超意識であり、それは五感でもなく超五感(超能力)でもなく、バルト界やアストラル世界やメン
タル世界での知覚でもなく、それらを超えているさらに高次の超知覚なのでありましょう。

 

この超知覚認識とは、いうならば神道でいう天照大御神の御分心である一霊・直毘・直日の知覚認識なのでありま
しょう。
この目で観るとき、世界は神のみであり、愛そのものであり、完全完璧なのでありましょう。

 

 

そして、もし本当に「観察者は観察される者である」という高次の直接の知覚がそこに在るのならば、即ち対象を
観察している主体とは虚構であり、「観察する私とは観察されるもの即ち客体・対象である」「万物は私の中にあり、
そのとき、そこには「私の中に万物はある」ということの直接の超意識による知覚があるとき、
そのときそこには神聖なる秩序が顕現していると言われております。

 

それは「見るものは見られるものである」と言う「私とあなたの分離がない」超知覚の至福の状態のことでありましょうか。

 

そこには見ているのは見られているものであるいうことを、実際に知覚をしている超意識状態が顕現しております。

 

そしてそこには思考による二元分離は存在しておらず、そこに愛が在ると言われます。全てが完全完璧であり、そのとき
愛に値しないものは何も存在していないのでありましょう。・・それが実相の実在なのでありましょう。

私達が見ている世界は脳が受信した私という観念の世界・・記憶の世界なのです。

 

神は愛なりとキリストは言っておられます。

愛とは神だからです。愛が神なのですと。

 

「私が恐怖を観察しているのではなくて、恐怖が私です」という非分離のこの超知覚。・・「見るものは見られる
ものである」と言う超知覚。
「虚偽を虚偽として見ている中に真理が在る」というこの超知覚があるとき、

そのときそこには愛(神)が在りますと言っておられます。

 

この久保栄治はそれを垣間見たこともありません。私は全く知りません。

 

しかし、例えば、もしその思考ではない意識の目で肉体を見る事ができるのであるならば

そのときには、それは即ち

私がこの肉体を対象として観察しているというのではなくて、見ている私が居ないことでありましょう。

 

そのとき対象として見ている私は消え去って「秩序である肉体」だけがあることでありましょうと・・教えておられます。
神道の荒身魂が本来の荒身魂に成長したのです。

そこにはもはや観察者や体験者や記憶する私がいないのです。ただ愛だけが在るのですと。

 

そこでは見る者と見られるものとがひとつになっていて、分離分割がないのです。この不二一元、至高なる目の中には
すべては一つであり、全ては分離していないからですと。魂の超知覚がそこに顕現しておりますと。実相を実相が観ているのです。

 

そしてその正しい意識の状態の中に正しい秩序が現れていることでありましょうと言われます。実相は「見るものは見られるものである」であるからですと。

 

 

 

この思考ではない意識に対してミルダッドは以下の様に教えておられます。

 

 

ミルダットは言います

 

「憎まないことが愛することではない、

 

〈愛〉は能動的な力だ。

 

〈愛〉が動きと歩みのすべてを導かな

 

いかぎり、自分の道を見いだすことは

 

できない。

 

そして〈愛〉が願いと思考のすべてを満たさないか

 

ぎり、願いは夢の中で刺草となり、思考はあなたの

 

日々の挽歌となるだろう。

 

そして愛することとはなんだろうか

 

愛する者が、愛する相手に永遠に吸収されて、

 

二者が一体となるのでなければ」



※私の感想
【口に入るもの】とは

①DNAのプログラムやカルマによって必然的に起こる失

敗や成功、出会いや別れ、人種や境遇、事故や病気、生と

死、身体や脳など才能と障害、衝動と行為、災害や戦争

それらは一瞬一秒の狂いもなく人の身にやってくるので

あるという。通常ではこれを運命と言ったり、自分の

努力の成果や自分の行為のせいだと思っている。





②それに対して潜在意識にある「記憶」自我・エレメンタ

ルすなわちそれはこのこれを書いている現在意識の私で

であり、その私は条件付けに従って即座に絶え間なく知

覚認識して反応する。

いつも絶え間なくこの記憶はエゴ、怒り、憎しみ、高慢、

暴力、悲しみ、不安、恐怖、思考、感情、行為、競争

目的、判断、動機、努力としてこの内部と外部に起こって

いる事に対して反応している・・・。そして通常は私達現

在のパーソナリティーはこの記憶の反応に巻き込まれ記憶

と一緒に行為することで更にカルマを積み重ねていく。

通常、この記憶とは人格とよばれている。またこれに巻

き込まれている私の事を現在のパーソナリティーという。




【口より出ずるもの】とは

重要なのは、私達である表面意識の記憶に対する態度、そ 

して生じている出来事(それは内面でも外部からのでも)

への態度である。混濁していて未形成の表面意識と言わ

れている現在のパーソナリティーのサイコノエティック

体の態度、あり方のことである。

是は又

天照大御神の御分心「人の心」のことである。イエスキリ

ストの言う「人の子」であり、ミルダッドの言う「幾重の

ヴェールに覆われた神の子(I AM)」のことであろう。

この記憶の反応に対して顕在意識の私達・現在のパーソナ

リティーは、自分から出でる言葉やマインドに対して最大

限に注意し、責任を持って慎重に行為しなければならない

ということ。

黒住宗忠が言うように「天に繋がる人の子」として、私達

現在のパーソナリティーは「人の心」を養い育てなければ

ならない。カルマや記憶などの反応や、起こっている事の

一切全てに対して非難や判断評価をして逃避したりせず

是を受け容れ愛して「ああ嬉しい、楽しい、面白い、あり

がとうございます、愛しています、許してください」と心

から発し感謝すべきであるということであろう。・それ

がキリストの「口から出でるもの」即ち人間の行いと考

えであり最重要なのである。

その人の心は、我という人格と一体化してしまっているが

それら「我の心ではない人の心」の態度、選択、決断で

あろう。

自分の潜在意識の中にいる人格・記憶が為している思い

や行為や選択を選択するのか、それとも魂と繋がる「I

 AM」を選択するのかであろう?自分の潜在意識にある

我の心には我の心で接するのではなく、我の心に対しては

相手がどうであろうとも感謝して愛の心で接するのであ

る。自分を愛することで自分から解放されていくと。

我の心がするように、自分・人格・記憶に対して判断し、

非難し変えようとするのではなくて、それをそのまま

受け容れ、感謝して抱きしめるのである。


魂と繋がる表面意識である私達現在のパーソナリティーは

カルマ及び記憶からやってきている思考感情、行為など

の知覚認識に対して、決して同一化することなく最大限

の注意を持って慎重に「口から出るもの」即ち「人の心」

のあり方を選択し実行しなければならない・・

即ちやってくるもの起こってくるもの、そしてそれに対し

て反応している記憶(良き記憶に対してもそうでない記憶

に対しても)であるところの私という人格に対して愛を

捧げなければならない。

ということであろう。