この肉体は神のもの。神が肉体として生きておられる。
この脳は神のもの。神が脳を使って生きておられる。
この知覚認識は神のもの。神が知覚認識しておられる。
この私は神のもの。神が私として生きておられる。
グルジェフは現在のパーソナリティーとはサイコノエティック体
のことであり、この諸体が再形成されていない限りは
私達はロボットと一体化しているという。
ロボット(即ち潜在意識にある記憶のこと)と一体化
している限りは
行為はロボットが為しているし、考えているのは同じく
ロボットが考えている!!
勿論、見て、話して、感じて、考えて、悩んで、傷つき
痛たみ、苦しんでいるのもこのロボット(記憶の反応)だ。
現在の、この私・自分だと意識している私とは、現在の
パーソナリティーの私なのではなく
潜在意識にある記憶・ロボットであり、潜在意識にある
記憶とは即ちこの人格の私のことである。
この私・良き夫、良き妻とは人間ではなくてロボットなのだ。
記憶のエレメンタルなのだ。記憶の反応なのだ。
この記憶の私が肉体に入って決められ決まったように
プログラムに従って正確に思考して行為している。
このロボットは決まったように、決められているように思い
行い、成功し、失敗し、結婚し、別れ、病み、死ん
でいく。
このロボットは神の演技、神の芸術作品である。
しかしサイコノエティック体の私は眠っているの
で行為や出来事に参加していない!!(と教えておられる)
・・・現在のパーソナリティーとはこの記憶の私ではない。
現在のパーソナリティーは眠っているのでこの人生に
関与できないし、この人生で生きていないのだ!!
ではロボットの私とは何んだろうか?私の潜在意識の中にあって
脳が受信して、現在のパーソナリティーに蓄積された記憶、
「私という観念」の記憶である。それはまたエレメンタルである。
それは、この人格の私、一生懸命、競争して、学歴を付けて、
一流企業に就職して、良き妻と良き夫と良き子供に
恵まれて、最後は肉体と同一化したまま喘ぎな
がら死んで幽界にいく私・・肉体を離れる私、潜
在意識にある記憶の私のこと。
そしてまた転生していくワサナの私だ。
では現実の私とは?この実際の私とは?
眠ったまま目覚めていない現在のパーソナリティー
の私である。
本当は、パーソナリティーの私は、この人格の私、記憶の私では
ない。「現実の私は眠ったまま」であり記憶の私に完全に支配され
てしまっているけれども・・・。
そもそもロボットの私が誕生することができるのも、この
現在のパーソナリティーという「迷える神の子羊」が在るからであり、
この眠ったままの現在のパーソナリティーがいなかったら
ロボット(記憶の私)も存在していない。
現在のパーソナリティーの私は、記憶の私が思考している
ように考えてしまい、記憶の私が行為するように行為して
しまいカルマを作り、そして
またこの物質界にロボット(記憶の私・エレメンタル)
と一緒に生まれてくる。
現在のパーソナリティーはサイコノエティック体が
再形成されない限りは
記憶の自分が行為するように行為してしまい、
カルマとエレメンタルを生み出し続けている。そし
てまたカルマを背負う肉体と記憶の私(ロボット)に
雁字搦めにされて、物質界に戻って来る。
行為も思考も現在のパーソナリティーはしていない。
先ず現在のパーソナリティーが自分の身体サイコノ
エティック体を再形成しなければ、私達は自分が行
為することも、意識することもなく、そしてこの人
生に参加することも出来ない。
魂の私とは、この現在のパーソナリティーの記憶の私が
終熄・終焉しない限りは問題にすることすらできない。
鏡を覆う穢れが取り祓われなければ
魂の私の事は遙か、はるか先のことである。
しかし、肉体とは神の宮であり、神が生きておられる。
それなのに私達はこの神の宮をロボット記憶・人格の私
と一体化して、穢している。
私達はサイコノエティック体であり記憶の私、人格の私、
ロボットの私ではない。
まったくもって肉体でもない。
私達とはヒューレン博士がいうように神聖なる魂と繋
がっているサイコノエティック体を持っている現在の
パーソナリティーなのだ!!
この肉体は神のもの。神が肉体として生きておられる。
この脳は神のもの。神が脳を使って生きておられる。
この知覚認識は神のもの。神が知覚認識しておられる。
この思考、感情、想念、記憶、行為は神のもの。神が使っておられる。
この私という観念は神のもの、神が私という観念を使って演じておられる。
この私は神のもの。神が私として生きておられる。
病気も健康も、生も死も、敵も味方も、失敗も成功も、殺すものも
殺されるものも、私もあなたも、善も悪も、万物一切が神のもの。
神以外には何ものも存在していない。一切は神の姿。