「観察者は観察される者である」クリシュナムルティー
【私の感想】
自分が怒っているとき、イライラしているとき、恐れて不安であるとき、暴力的であるとき、
そういうときには誰もが自分のその精神状態に気がついていることだろう。
だれもが自分の自我に気がつき、吃驚したり、うんざりしたりしていることだろう。
そして多分、その状態をそのまま自分の状態だとして、それと一体化してしまっていることだろう。
しかし何かしらの信条や哲学や宗教心のあるひとは
そこで、それに流されずにその不安や欲望を何とかしようとして押さえようとしたり
自分がそれに巻き込まれないように、焦点を変えたり、違うことを思ったり、
それから気をそらしたり、その自我を非難したりしていることだろう。
しかしながら私達は非難することでかえって逆に心の中は紛糾し葛藤の渦に巻き
込まれてしまって決して平安は訪れない。
この自分の内面のそれを見て、判断したり、変えようとしたり、押さえようと
したりして、それを観察しているのは誰なのだろうか?
その欲望と「欲望に気がついている欲望の観察者」は異なっているのだろうか?
それとも、自分の自我と、その自我に気がついている自我の観察者は異なっていない
のだろうか?
・・通常の常識ではそれは勿論、内面の観察者と内面で観察されるものとは異なって
いると思われているので、そこでは常時、内面の観察者と観察者によって観察されて
いる欲望や暴力や不安恐怖などとの葛藤・闘争が心の中では繰り広げられていること
だろう。
しかしながらほんとうに私達が内面で観察している、その不安や欲望や暴力と
それに気がついてそれを変えようと努力している観察者とは異なっているのだろうか?
自分の内面で観察されている恐怖とそれに気がついている恐怖の観察者とは
別々の存在であるのか?どうなのか?
普通一般の常識では自分の内面で見られている自我は、その自我に気がついている自
我の観察者とは異なっている・・とその様に思われているのだが・・・
果たしてそうなのであろうか?
自我の観察者と、観察されている自我とは別の意識、別の存在であるのか?
それとも観察されている自我とは、自我を観察している私と異なっていないのであろ
うか?
通常の自己観察では、勿論それは、異なっていて、上位の自己が下位の自己を自己観
察しているとその様に説明されているのだ。
しかし本当にそうなのだろうか・・・?心の葛藤をじっと優しく見てみよう・・
自己の恐怖を見ているものと見られている恐怖、そして
自分である自我とその自分の自我に気がついて自我を観察しているもの
この観察者と、この観察者によって観察されているものとは同じなのではないかという
ここでクリシュナムルティーの言葉「観察者は観察されるものである」の理解の片鱗
がやってきた場合、
内面での革命、心の改革、記憶のクリーニング、諸体の再形成が起こると教えられて
いる。
もしも、このような理解が起こるということは正しく恩寵なのであろう!!
この理解は思考を超えている内なる意識から齎されるのであるから・・と。
そしてその時
観察者によって観察されているものそれは分離していないことだろう。
観察者と観察されるものの分離分割という虚偽が露呈され始めたのである。
ヒューレン博士が相手とは自分を投影している自分自身であると言うとき・・
またヒューレン博士が大統領やテロリストは私の投影であり自分の責任だというとき、この理
解とは恩寵なのだろう。
自我に気がつき自我を見ているものとは自我なのではないか?という高度な知覚
が起こるのである。
暴力や不安や恐怖を自分の心の中に発見してその観察者によって観察されている対象
とは観察している観察者自体ではなのではないか?・・という発見である。
クリシュナムルティーの「見るものは見られるものである」の理解の閃光が訪れる
のであろう。
イライラして暴力的であるとき、悩み苦しむときその自我の働きに気がついているのは
誰なのだろうか?それはイライラであり暴力なのではないか。クリシュナムルティ
ーはそのことを「思考者はいない思考が有るだけだ」と言う。
自我の動きに気がついてその自我を非難して観察し、改善しようとしているのは誰で
あろうか?
それは同じ自我なのではないか?
だれが自分の恐怖を見ているのであろうか?自分を見て観察しているものとは誰であ
ろうか?クリシュナムルティーは同じく恐怖を見ているものは恐怖であるという。
それは恐怖の観察者であることだろう。その自我の観察者とは自我に他ならない。
自我が自己を分離して対象として観察しているのである。
自我が自分自身を分離分割して、自己を見る者と見られるものに分離分割し分けてみ
ているのである。
自我が自分自身を主体と対象に分割し、自分と他者を分割しているのであろう。
クリシュナムルティーは観察者とは観察されるものなのであるといっている。
主体とは対象であるという。「見るものは見られるものである」という。
「立ち向かう人の心は鏡なり己の姿を映してやみん」である。
この分離分割が自己と世界を分割し、自己と他者を分割し、内部と外部を分割し
さらには、自分を分割して、自己を観察者と観察されるものに分割している。
のではないか?きっと本当はシャンカラの言うように「汝はそれなり」なのだろう。
自我を自分の心の中で発見して自我を改善しようとして努力しているものとは
即ち自我の観察者とは、観察されている自我なのである。
自我が自らを分離分割して自己を対象化しているのである。
それゆえに、その分離して見ていること自体が自我の働きであり、自我とは記憶であることだろう。
そしてそこには・・
葛藤しかないのだ。そして自我に焦点を当てることで、かえって逆に混乱が増してしまうのである。
ここでクリシュナムルティーはこの自我や葛藤を観察している観察者とは観察されて
いるもの、即ち自我・葛藤それ自身だというのだ。この理解がやってくるときその理
解の目には愛しか見えていないのだという。全てが完全完璧で喜びと平和に満ちてい
るという。これをクリシュナムルティーは
「見るものは見られるものである」と言うのである。
「観察者は観察されるものである」と言うのである。
「自分は他者である」というのである・
「私は世界である」というのである。
自我を見て発見して自我を改善しようとしているのは自我であるというのである。
このように「虚偽を虚偽と見る」のは恩寵であり、やってくるものであることだろう。
是に反して私達である通常の自分自身を対象化してしまっている場合の
普通の対応とは私達とは自分の恐怖やイライラや自我に対してそれを非難したり、蓋
をしたり、隠そうとして争い、格闘することだろう。
そして自分の自我に気がついて自我を抑え込んだり、非難したり、修正しようとした
りすることだろう。これこそが自我・思考という記憶の働きに他ならない。
しかしここでクリシュナムルティーやヒューレン博士はこの自我の観察者である自分
に対して
「愛を与えなさい」「非難なく自我を観察している私観察者に対して何もしないで感
謝し、ただただ、自我を見ている観察者を凝視しなさい」というのである。
「自我ではなくて自我を見ている自我の観察者を凝視しなさい」というのである。
「自我ではなくて自我を見ている自我の観察者に愛を注ぎなさい」というのである。
何故それが可能なのかは私達とは本来は神の子であり、現段階の現在意識では思考
と混濁し、記憶に占領されていても、思考ではない意識が元々ここにあるからである。
その混濁しているが「思考ではない意識」意識というものを使用して、自我に愛を注
ぐことが可能となるのである。
そして、この自分の事を観察している「私・観察者」のことを呼吸を鎮め、愛をもっ
て自分自身を観察するとき
奇跡が起こるというのである。
この自我を見ている観察者をじっと判断や非難や逃避することなく観照していると
き・・・
観察者を観察しているのは思考ではなくて意識であり、その記憶の反応ではない
意識が徐々に姿を顕してくると言うのである。
そしてこの「見るものは見られるものである」の理解は愛を齎すであろうと。
殺す人も殺されるものも私自身であり、敵も味方も私であり、虐待する人も虐待され
る人も私であるとき、その時、その「観察者は観察されるものである」の理解の中に
神聖なる愛と秩序が顕現していると。
そしてそこには自己や他己の中に神を見、その見る目には、この虚偽である幻想の
私とその記憶の私が見ている幻想(虚偽)が消滅し、本来の姿が顕現し、全てが
愛(神)であることが現前すると教えておられる。
クリシュナムルティーの「虚偽の中に真理を見ること、そして真理を真理とみるこ
と」との魂の目が現在のパーソナリティーと繋がったのである。
・・これは非常に難しいワークである。
この「自己・自我を見ている自我の観察者」を観察しているのは思考ではなくて意識
であり
その意識とは「空」であるというのである。
観察者を観ているものは思考ではなくて意識であると実感するというのである。
この私の自我を観察している私・自我・即ち観察者に対して愛を持って接し
自己自我の観察者を観照しているとき
そこに意識である空、空の意識が徐々に出現してくるというのである。
即ち「自我の観察者」を観照しているのは思考ではなくて空なる意識であり
その意識とは空であるということ、そしてことの気づきが起こると云う・・
ではその空という意識を見ているのは誰であろうか?
という疑問がさらに起こるという。
そのとき・・
自我の観察者・思考・即ち自我を見ているのは、観察者ではない観照者であり、
観照者とは思考ではなく意識なのであり
意識とは空であり、空とは愛であり、空を観ているものは空であることが感得される
という。愛を見ているのは愛であり、それは至高なる名付けられない実在である。
そこに空である意識の拡がりが感得されるというのである。
「思考を観ている観察者」を観照しているのは思考ではなくて意識であり
その意識とは空であり
空とは思考が無い意識の拡がりを指しているという。
これは
この「思考である観察者」「自分を分割して主体と客体に分けている記憶」を
凝視し続けることによって、それは起こると云う。
所謂、意識の座の意識が感得されし始めるというのである。
その絶え間のない「観察者の私」に対しての感謝と愛のワークを通じて
思考を超えている意識即ち観照者(魂の意識)という思考の不在=空=愛が
大いなる拡がりを伴って出現するというのである。
それをクリシュナムルティーは「虚偽を虚偽と見ること」「虚偽の中に
真理を見ること」と表現している。それが「見るものは見られるものである」
「観察者は観察されるものである」の真意に他ならない。