今までの宗教や求道者の過ちを熟知しているクリシュナムルティーは
記憶=自我による「変性意識状態」の体験とこの「理解の直接の体験」
とを厳しく峻別しています。
記憶=自我による「I AM」や「我在り」の体験を、記憶=自我の
終焉による「I AMの直接の体験」と混同しないように求めています。
「I AM」とはデカルトの云う「我思う故に我在り」であり、それは
エレブナで言う所の「ソウルセルフエピグノーシス」です。魂の私です。
ここでの最初の「我思う」とは記憶の私、架空の私による「我思う」
であり「意志」とよばれています。
その「我思う」が成立しているのは鏡という「意識の座」があるから
であり、デカルトはその神聖なる意識の座・鏡のことを「我在り」といって
います。デカルトの「我思う故に我在り」の言葉での後半の「我在り」とは
「我思う」の基底であり、思考を成立させている「思考ではない私」の言明
でありましょう。
クリシュナムルティーはあくまでデカルト云う「我在り」という
「我 I AM」に関しては言及しておりません、思考が自分を我
と思ってしまう危険性、思考の詐術に掛かってしまう恐れが多いからです。
私達である透明な鏡には思考とその思考者が「跳梁跋扈」していて
自分が鏡自身であり、「I AM」であるように変装し見せかけています。
思考者とは思考が起こった直後に形成され、それが「私が思考している」
という私・思考者即ち「架空の私」という記憶を形成していて「私が思
っている。私が思考している」と・・その記憶が自分と思考とは別の存在
であり「自分私が思考しているのだ」と思っています。がしかし「自分が
思考しているのだ」と思っているその私こそが思考によって生じている
「在る私」ではない「架空の私」即ち記憶なのです。
自分や他者の中に自我を見ているものは、その見られている自我であり
それは記憶の姿、自我を見ている私自身の姿でありましょう。
自分の中の恐怖を見ているもの、その恐怖を恐れている私とは、その恐
怖が生みだした私即ち恐怖それ自体なのだということです。その恐怖と
はデカルトのいう「我思う」であって「我在り」ではなく。それは「我在
り」が在るからこそ、その「架空の私」が知覚され認識されているのであり
ましょう。人類の平均的意識の現状ではこの私達の基底にある「我在る」
は認識されることはありません。
私達に認識されるものは「我思う」ところの記憶の反応に限定されています。
恩寵によって記憶がクリーニングされて「魂の目・我在り」が表面意識に
顕現されない限りは、「自分が生きている、自分が思考している、そして
自分が行為している」という錯覚は続いていくことでありましょう。
この「我思う」とは記憶の反応であってそれは即ち分離と無知と恐怖と
殺戮と闘争でありましょう。
恐怖を恐れている私こそがその恐怖そのものだということです。「私が
恐怖を知覚認識しているのではなくて、この私は恐怖が生みだしたのです」と、
何故ならば、この私こそが「我在り」を覆っている記憶の反応であって
「I AM・我在り」ではないわけなのです。そしてその恐怖が恐怖の観察者
を生みだし「私は恐ろしい」というのですと。
ここでクリシュナムルティーは久保栄治のようなこのことへの単なる知
識ではなくて、直接の理解がある時に聖なる空間が生じ(キリストのい
う新しい革袋)て、そこへ「I AM」である「我在り」が「愛」が出現
している、と云うのです。
自分や他人の自我を見ているものこそその対象である自我なのですと。
そしてその直接の理解が愛なのでありましょう。何故なら「虚偽の中に
真理を見ている」からですと。
「意志」が「期待」が「願望」がその思考という記憶の反応なのであり
、「意志」「期待」「願望」がそのエレメンタル(記憶の私)の証拠です。
そしてあらゆる出来事に対してその「架空の私・記憶」が反応していて、
更に、その記憶が思考し、行為しているということであります。それが
エレメンタル・人格の私であると云うのです。それがこの現象界であり
ましょうか?現象界それはこの記憶が興し、そして記憶が思考し行為
しているのでありましょうか?
その鏡の表面に跳梁跋扈している思考と思考者も私の責任であり
それがデカルトの云う「我思う故に我(鏡)在り」の「我在り」の
意識なのでありましょう。
その非分離こそが愛だからでありましょう。