我思う故に我在り



吾思う故に我あり・・デカルト


「世の中の全てを疑ったとしても
それを疑っている自分自身の存在だけは
疑うことが出来ない」


私の感想

この有名なるデカルトの言葉はいろいろと解釈が異なるのでありますが
「わたしが思うことが出来るのも、苦しむことが出来るのも、この私が
ここにこうしていられるのも結局は我(I AM)が存在しているから
ある」と彼は言っているのであると思います。

考えることや知覚すること、苦しむことや、悩むことも、眠ることも、
恐怖することも、憎むことも、嫉妬することも、そして眠って、また目
を覚ますことが出来るも、
そしてその「自分が思考して行為していると思っている思考や行為も」
全てはこの「我・I AM」があるからでありまして、如何なる消去法に
よっても消去できない「我」が在るからであります。

思考や意識が働くことが出来るのも、日常の意識を超えている「我」が存在し
ているからであります。

すべての「思うこと」を成立させているのがこの「我」であり、「私 
I AM」であり、それは決して単なる記憶の塊・エレメンタルである
自我のことではなく、消去できない私、思考や意識や記憶の反応である
意識的自己・エゴを支えておられる我「I AM」であります。
(※言葉が一般の意味ではないのでご注意ください)

自分と思っているエレメンタルの存在を可能にしている大元の「私」、
それはまたエレブナで言う「ソウルセルフエピグノーシス」であり、
それこそがあらゆる思考と記憶を、また偽我・自我・エゴの継続を
可能にしている「ソウルセルフエピグノーシス・真の私」であり、
それは「吾思うのは我がある」からであります。
・・とデカルトは言っているのではないでしょうか。

世の中には色んな意見がありますが、わたしはデカルトのこの言葉の意味
はすべての人の中核にある「ソウルセルフエピグノーシス」の事であると
思うのです。


その「我」を神道では「人の心は天照大親神の御分心にして我の心に非ず」といっ
ておられるのでありましょう。我の心とは、自我のエゴの心であってそれは即ち
エレメンタルである記憶の反応のことでありましょう。
(・・同じ我という言葉でも全く異なる意味で使われています)

デカルトの結論はアートマンが全てを観照しているとも言えましょうか。

人生での喜怒哀楽、決められているように必ず起こる生老病死、四苦八苦そして
それに振り回されている記憶の反応(私という観念の私)・・・是が人生です。

この人生とはラマナ・マハリシの云うように「我在り」というスクリーン(鏡)に
投影されている根源からの(私という観念)の映像なのでありましょう
(これはラマナ・マハリシという超意識という目から見た言明です)

鏡というスクリーンに映っている思考と感情と行為・・それはデカルト
の最初の部分「我思う」ところの私達の判断・意志・意識でありましょう。
そしてそれらは私ではなくて、私を騙る記憶なのです、エレメンタルな
のです。
記憶・思考はデカルトの云う「我在り」という基底があればこそ、それら
「私の人生」は成り立っております・・・
そのエレメンタルの私を愛と感謝を以て観照しているのがデカルトが言う
「我在り、I AM」であり、それは魂の目のことであり、それがアート
マン即ち黒住宗忠が教えた「○(マル)の心」「天照御祖神の御分心で
ある人の心」なのでありましょうか。


言語は異なっていても、同じ内容であったり、また同じ言語を使用しても、
その言語が示す内容は異なっていたとしても、指示代名詞の違いに拘わらず
示している内容は全く同じなのです。