殆ど多くの哲学者は傲慢である。
それは「自己を知ることがない思考」では
決して、「自己を知ることはない」し、
従ってその記憶では「世界」を知ることはないのに、

そのことを理解しないし、
このことを深く知ろうとしないからである。

それなのにその未熟な理性や知性で以て「自己を知り」「世界を知る」ことが
出来ると堅く信じ込んでいるのである。

これは傲慢以外の何物でもないと言える。

その哲学者が堅く信じ込んでいる理性や知性とは、
「肉体は自分の所有物」であって、
「自分は肉体である」、「自分はこの思考である」
「自分の思考は全てを知ることが出来る」
「思考で分からないものは存在していない」と錯覚しているのである。


しかしながら実際には脳とは思考を受信し、発信していて
肉体や脳と結合した私達が未熟故にその思考と一体化してしまって
いるのだ、

私達はその思考と一体化して、
「肉体は私のもの」「記憶の思考とは自分の思考である」と信じ込んでいる。
・・・そのことに全く気がつかないのは何という幼さであろうか。


それをそう思い込んでいるのは「私という観念の記憶」であり
私達が未熟故にその記憶に殆ど染まってしまっているということに
決して気がつかないのである。

「私は知らない」「私は知ることはない」ということに気がつかないし、そのことを
知らないのである。

そしてその「私という観念」の記憶が「神を知り」「真理を知り」「自己を知り」「世
界を知ること」が出来ると思い込んでいるのが殆どの哲学者である。

「自分は無知である」ということが分からないのはなんと悲しいことであろうか。



ミルダッドは言う


〈論理〉が成熟に達すると、それは自らの網の上
で自らを絞め殺し、より深い知識である〈信念〉
へと変容する。

〈論理〉はけが人にとっての松葉杖。しかし俊足の者にとっては
重荷。翼を持つ者にとってはさらなる重荷。

〈論理〉は老いぼれた〈信念〉。〈信念〉は成熟に達した〈論理〉。


〈時間〉の手に弄ばれる自己を否定しなければならない。

そのことによって、〈時間〉の奇術を免れている〈自己〉を肯定
することになる


一つの自己の否定が他の自己の肯定である。              

自己を否定することは、〈自己〉を肯定すること



変化に対して死ぬことは、不変なるものへと生まれ変わること。
多くの者は死ぬために生きている。
生きるために死ぬ者は幸いである


あらゆる事物が人間の中に組み込まれている。
その代わり、人間はあらゆる事物の中に組み込まれている。

宇宙はたった一つの体である。

その最小の部分と交流すれば、すべてと交流し
たことになる。