考えているのは誰なのか?
誰が考えているのか?
感じているのは誰なのか?
誰が感じているのか?
見ているのは誰か?
誰が見ているのか?
行為しているのは誰か?
誰が行為しているのか?
それは私、「人の心」ではなくて、記憶の反応「我の心」に他ならないことだろう。
見て、感じて、考えて、反省して、計画して、知覚して、行為しているのは記憶の
反応「我の心」なのであって「人の心」なのではない。
重要なことは常に起こっている「我の心」からの思考や感情、欲望そしてそれに対する、
同じ「我の心」からの「心の持ち方」なのではなくて
その記憶という常に条件反応している「我の心」に対する態度、すなわち
「人の心」の態度なのであり、接し方であり、「人の心」のあり方であると。
「我の心」を選ぶのかそれとも自分自身である「人の心」を
選ぶのかのこの選択こそがもっとも重要なのではないか。
内部と外部に起こっている出来事や感情や思考に対して
途切れることなく常に条件反応しているのは誰なのであろうか?
それは「人の心」ではなくて
記憶の反応である「我の心」なのである。
黒住宗忠が教えておられるように・
「我の心」・記憶が見ているのは「我の心」・記憶自身の姿である。
「我の心」・記憶が見ている欠点だらけの相手とは「我の心」・記憶自身の姿である。
「我の心」・記憶が見ている戦争と苦しみの世界とは「我の心」・記憶自身の姿である。
自分や他人の心の中にエゴと悪を見ているのは、見ている「我の心」・記憶自身の
姿に他ならない。
「我の心」が相手の鏡に自分を投射投影して、自分を憎み、非難し、自分から逃避し
ようとしている。
逃避しようとしている対象とは自分自身なのであることに「我の心」は気がつかない。
逃避しようとしている恐怖とは自分自身であることに「我の心」・恐怖は気がつかない。
そしてその同じ「我の心」が自分である恐怖を非難し、改善し、蓋をしようとする。
そしてさらに「人の心」は「我の心」を自分自身だと錯覚している。
「我の心」は自分自身であるエゴと悪を対象・相手として見ているのだ。
「人の心」は「我の心」と一体化して「我の心」の知覚認識を自分自身の知覚認識なのだと
取り違えてしまっているのである。
エゴと悪と恐怖を見ているのは、それを見ている「我の心」自身の己の姿なのだ。
ホ・オポノポノのヒューレン博士が言う。
「人の心」が「我の心・記憶」に対してお詫びして、許しを請い、愛して、感謝するとき
神聖なる恩寵によって記憶からの解放が起こるというのである。
生あるのもに対して、また生なき物に対しても、あらゆる全て一切に対して愛と感謝を捧
げるとき、「我の心」記憶からの解放が起こり始めるというのである。
黒住宗忠が教えておられるように、愛と感謝を万物一切に捧げる実践するとき、そ
の実践を通じて「人の心」から「我の心」が剥がれはじめ、「人の心」は徐々に成長を
遂げて「天の心」と一つになり
ついに全ての中に、全ての人の中に神を見て愛に溢れる「人の心」になるという。