その三つの心が絶え間なく入れ替わり表面意識(意識の座)に表れてくる
ので私達はどれが本当の自分の心なのかと?迷ってしまうのである。
では、さて私達の表面意識(意識の座)に表れてくるその三種類の心とは?
それは黒住宗忠が見事に説明しておられる。
①私達が自分の心だと取り違い、間違ってしまっているこの「我の心」。
いつも私達の表面意識を占領している、潜在意識に棲んでいる「我の
心」。自分を肉体であると錯覚し、起こっているあるがままに対して
記憶から反応し、選択している人格の私のこと。
記憶の反応であるエレメンタルのこと。
私達の毎日の通常の表面意識の心とは人の心ではなくて人の心の潜在意
識に棲み着いているこの「我の心」である。「我の心」に支配されてし
まっていることに私達は決して気がつかないで自分とは「我の心」だと
信じているのである。
寝ても覚めても夢の中でも、この「我の心」に支配されている。
この「我の心」のことを、黒住宗忠は「人の心は我の心に
非ず、人の心は天照大御神の御分心」である。と言っておられる。
②私達自身である人の心、記憶の反応ではない表面意識(鏡・意識の座)
のこと。
人の心それは私達である神の御分心、大生命そのものの分心である心の
こと。私達とは透明なる鏡なのであるという。そしてその鏡には元々最
初から太陽が輝いている。本来意識の座は透明であって輝く光の中にあ
り、その意識の座を覆う「我の心」が取り払われたのなら、元々最初
からあった光が意識の座から輝くのである。
それが人の心である。人の心とは神の御分心だという。
しかしながら私達は人の心であるにも拘わらず、自分は肉体だと信じ、
自分は記憶の反応であり、脳の条件反応だと絶対的に信じ込んでいる。
潜在意識にある「我の心」が選択し決定してしまっていることに気付かず
同調し、「我の心」と同一化して自分自身である愛と感謝という神の子
の心を選択しないで「選択している我の心」を選択してしまっている。
そして起こっている事に対して、感謝して全てを受け入れないで「我の
心」が何とかしようとしていることに同調して不安と恐怖に慄いている。
表面意識に表れていつも選択している自分ではない「我の心・エゴ」を
選択し「我の心」と同一化していてもそのことに気がつかない。
神の子である人の心を養い成長させることがその神の子である
私達の勤めであろう。私達を覆っている「我の心」が薄くなるにつれて
徐々に「鏡である私達」からはそこに元々ある神の光が輝きだしてくる。
③そして三つ目は「天の心」である。その大生命の御分心である
私達自身である「人の心」が「我の心」を自分の心と取り違え
て「我の心」を選択することによって、人の心を傷めていることで天
の心を傷めていると教えておられる。
又同時に愛と感謝を通じて人の心を養うことが天の心を養うこと
であると教えておられる。私達が人の心を育て成長させて天の心
が徐々に顕現しだし、人の心と天の心が一つになるのであろう。
このことは、即ち私達現在のパーソナリティーとは本来神の子であり、
エゴや、脳の条件反応、記憶の反応という「我の心」ではないということ
である。私達は「我の心」ではなくて神の子の分け御霊である。のに
もかかわらず、私達である人の心は記憶の反応である「我の心・エゴ」と
自分を取り違えてしまって、天の心を痛め傷つけてしまっているのである。
と教えておられるのである。
愛と感謝と許しが人の心である。我の心とは私達の心ではない。私達は
潜在意識にある記憶の反応や条件付けられている脳の反応では
ないのである。・・・このことを黒住宗忠は教えておられる。
自尊心に溢れ、恐れ、怒り、暴力的で、支配し拡大しようと常に不安と
猜疑心と恐怖と競争心に溢れているのは人の心ではなくて「我の心」
記憶の反応なのである。
ただこの「我の心」も人の心も同じ心であり、それが表面意識
に同じように立ち現れてくるので、私達が「我の心」を自分の
心だと錯覚してしまうのであると教えておられるのだろう。