もし熟睡がなかったら、私達は身も心も疲れ果ててしまうことでありましょう。

熟睡とは肉体や心にとって蘇生リフレッシュを齎す絶対的になくてはならないものであることは明白
であります。

では熟睡とは何でありましょうか?

その前に、熟睡を必要としているのは心身をリフレッシュをするためであり、リフレッシュを必要と
していると言うことは、私達が肉体と心を、毎日の生活において痛め傷つかせてしまっていると言
う現実があるということなのであります。

毎瞬毎秒、記憶が再生されていることで心身を傷めてしまっているのです。思考が心身を痛めるのです。


この身と心を記憶が傷めてしまっているので、この傷めている「自我」(潜在意識の中に有る記憶)
即ち通常の毎日の生活で自覚されている「私=実は記憶の反応」から切り離し蘇生させるために
肉体と心(現在のパーソナリティーという魂の表面意識のこと)を記憶から一時期切り離し、
脳を支配している記憶からの影響を一時的に受けないようするためです。
大生命である「叡智」が行っているのが睡眠または熟睡ということであるといえます。

しかしこのことは多少とも複雑なので
この睡眠若しくは熟睡を考える前に私達は自分自身の基本構造を理解する必要があります。

私とは非常に大雑把に分けて、以下の様に構成されているそうです。
①肉体
②記憶・・肉体では太陽神経叢付近にある潜在意識の中にいる記憶(自我・エゴ・人類の集合無意識)
③魂を構成している表面意識・現在のパーソナリティー
 (潜在意識の記憶と一体化してしまっているサイコノエティック体(未形成で進化途中の魂の表面
  意識のこと))
④たましい霊魂(真の私と繋がる神道で言う鏡、透明なる時空を超えた意識、観照者ともいう)


この進化途中の私達現在のパーソナリティーは魂の表面意識でありますけれども同じ魂の中に有る
潜在意識に棲む記憶と一体化してしまっております。
現在の状況とは現在のパーソナリティーは記憶と混濁して、記憶にまみれており
記憶に支配権を握られ、記憶が行うように行い、記憶が思うように思い、その結果、肉体と自分自身
を深く傷つけております。

それ故に肉体と現在のパーソナリティーを守るためには一時的に記憶から離れるために大生命が
実施しているのが睡眠熟睡であり、この熟睡が必要となるのでありましょう。

エゴ、記憶に支配されている私達現在のパーソナリティーは、記憶の反応という思考しか知りません。
潜在意識の中にいる記憶と完全に一体化してしまっているからです。

従って意識の事は何も知らず、ただただ記憶の反応の思考のことを意識だと思い込んでしまっています。

通常、私達は思考や感情を自分だと思い込み、記憶や記憶の反応を意識だと思い込んでいるので
記憶や思考が無い熟睡状態を無意識だと思ってしまっていますが、しかしながら
私達のたましい霊魂の立場から見た場合には、「思考が無い熟睡とは意識が無い状態ではなくて
記憶の活動の思考が無い状態のことであって、その思考が無い状態とは思考を映している
鏡・意識が輝いている状態」なのであるということが言えます。


現在のパーソナリティーのサイコノエティック体が再形成されていれば熟睡という思考が無い状態とは
魂の意識が輝いている状態なのでありましょう。


しかし現状に於いては私達の魂と繋がっている現在のパーソナリティーのサイコノエティック体は
非常に未形成で混濁し記憶に支配されてしまっているので、意識を知覚認識することが出来ず
思考が無い状態、これを意識が無い状態、即ち熟睡だと判断してしまっているのでありましょう。

実際には熟睡とは、鏡という魂の前に思考が無い状態・・・記憶が肉体脳のある部分から一
時的に離されている状態であり・・・また記憶と一体化している現在のパーソナリティーも
肉体から離されている状態であるということ。

実際には魂の意識とはそこにあり、光り輝いているのであるが、現在のパーソナリティ
ーが記憶に染まり記憶に占領され支配されているので意識を知覚できないのである、
といえましょうか。

現在のパーソナリティーから記憶が取り払われ、清まり、浄化されて、新たに生まれ変わり
表面意識が魂の輝きを映し出すことがことが出来るようになっているならば、
覚者方のように、(現在のパーソナリティーが魂との繋がりを回復して)
熟睡中にも決して眠ることのない意識が顕現していることでありましょう
それがクリシュナムルティーのいう「思考なく見る」と言うことなのでありましょうか。