ヒューレン博士は言います
「顕在意識若しくは知性は、自らが解決に導き、物事と体験をコントロール
していると信じているが
意志決定は顕在意識・知性が自覚する以前に行われており、意志決定をして
いるつもりの知性はそのことに気がつかない。表面意識・知性が自覚するの
は既に潜在意識・無意識下にある「記憶」によって意志が決定されているこ
とに過ぎない」
そして潜在意識に関しては
「潜在意識は潜在意識にある記憶が命ずるままに、振る舞い、行為し、見
て、感じ、決断し、意志し、顕在意識でさえも気がつかないうちに記憶の再
生に命じられるままに機能している」
「霊魂を構成する潜在意識と顕在意識自らは発想、思考、感情、行動を生み
出さない。既に述べたようにこれらの思考と感情と行為の体験は記憶の再生
が起こしている【身代わり体験】である」
「要するに霊魂は、それ自体の体験を生み出すことはなく、記憶が見るよう
に見、記憶が感じるように感じ、記憶が思うように思い、記憶が振る舞いよ
うに振る舞い、記憶が決断するように決断していることを自覚することであ
る。霊魂が見るように見、霊魂が振る舞うように振る舞い、霊魂が決断する
ように決断することは稀である」
「問題解決に於いて決定的に重要なることは、肉体と世界それ自体、若しく
はそれらの内にあるものが問題なのではなくて、潜在意識下で再生される記
憶が齎すそれらの結果が問題なのだという事に気がつくこと。すると主導権
を握っているのは誰であろうか?・・・それは私達霊魂の意識がではなくて
記憶が行うように行ってしまっているのである」
「自己を知ること・自己に至ること、セルフアイデンティティーになるため
には”絶え間のない”記憶の浄化が欠かせない」
「記憶は絶えず潜在意識に棲みつき、休息をとることもない。退去すること
もなく、決して潜在意識から離れようとはしない。記憶はその絶え間のない
再生を決してやめようとはしない」
(※記憶の再生とは思考や感情である)
「顕在意識に与えられた選択肢とは、絶え間なく浄化を始めるか、記憶に絶
え間なく問題再生を許すかのいずれかである」
「この記憶・無知は結果として無差別で容赦のない貧困、疾病、世代から世
代へと受け継がれていく戦争と殺戮と死の偽りの現実を生み出し続けてい
く」
「誰が主導権を握っているのか、霊魂の霊感か、それとも再生され続けてい
る記憶か?選択はこの顕在意識に委ねられている」
「私達は(目覚めていないので)記憶の投影を生き、そして世界はそんな私
を投影している」
またエレブナでも同じように教えておられる。
「私達は(諸体が再形成されていないので)出来事が起きた後にその出来事
を生きています。
私達はその出来事が起きている最中にその出来事に参加することは出来ませ
ん。その内部と外部に起こっている出来事に参加したり変えたりそれに加わ
ることは出来ません、それを行うためには不定形の諸体に関するワークを行
い、諸体の再形成が必要です」
・・・そういうことでありますので、
私達は自分が自分の自由意志で自分の意志を決定し、自分が選択して、自分
が行為し、自分が見て、自分が感じ、自分が痛みを感じ、自分が恐怖し、自
分が不安に思い、自分が計画し、自分が考えているのだと思っているのであ
りますが、実際には世界を見て、また内部を見ているもの、即ち思考して意
志を決定し、見て、感じて、願って、欲望し、行動し、選択し、苦しみ、恐
れているものとは潜在意識にある記憶・根本無知だと言われているのです。
思考し行為している私・・それは私達を24時間支配している潜在意識の中に
棲み着いている記憶であるということです。そしてそれによって、私達はそ
の記憶が行うように一緒に行ってしまい、記憶が思うように一緒に思ってし
まっていると言われています。
で私達がその行いと思いをしたことによって、その行いと思いの責任を負う
ことになります。そして私達が自分の潜在意識の中にいる無知という記憶と
一緒に行為し、思い、欲してしまうことで、私達はエレメンタルを生み出
し、そのエレメンタルの責任=カルマを負うことになると言うことなの
でありましょうか。
その私達の潜在意識にある無知という記憶の最大の特徴は分離することであ
りましょう。
記憶は私とあなたを別々の存在だと思っています、記憶は私と万物は一つで
はないと固く信じています。記憶は私自身を敵と味方に分けて殺し合ってい
ます。そして記憶は自分自身を私だと思っています。
ヒューレン博士は世界とは記憶である私を投影しているのだといいます。
世界とは記憶である私が見ている私自身の姿なのに、自分自身を敵と味方に
分割し、相手を非難し、世界を変えようとしているのだと。
また私達とは実際には内部と外部は一つであり、外部は内部であってクリシ
ュナムルティーの言うように「見るものは見られるもの」であるのであり、
「観察者は観察される者」であるのに自分を非難し、他者を非難し、そして
世界を変えようとしています。
変えなければならないのはこの私であると言うのに・・・・。
それは無知である記憶が肉体を自分だと錯覚し、記憶が見ている世界と
は記憶である自分の姿であることに気がつかないからである。と教えられて
おります。