殺すものは神であり、殺されるものも神であるのではないか?


生まれるものも神であり、死ぬものも神であるのではないか?

殺すものも殺されるものも、同じ命であるのに何故私達は互いに争い殺し

合うのか?


敵も味方も、ともに同じ命、ともに同じ神が生きておられるというの

に・・・。

敵は神であり、味方も神である。共に同じ神が生きているというのに!!

敵も味方も同じく神であるのに、なぜお互いに礼拝しないのであろうか?


人格や人種や国籍や宗教や身分や才能の有無や年齢の違いに関わらず私達

同じように同じ命が生きて同じ神が呼吸しておられるというのに!!



ともに同じ大生命、同じ呼吸、同じ心臓、同じ血液、同じ三つの脳

同じ肉体、同じエーテル複体、段階は異なれど同じサイコノエティッ

ク体、同じ潜在意識、同じ潜在意識にある記憶、同じ構造のコーザル体、

同じ神からの霊魂であり、従って同じ知覚、同じ認識であるのに、

何故に敵と味方に分かれて相争い、憎み、許さずに、競争し殺し合うのか?


私達とは全員に同じ神が生きておられ、同じように錯覚し、同じように

競争し、同じように「私はあなたではない」と思い違いをしている!!!。


何故なのであろうか?


「自分は個人で、自分は肉体で、自分は○○国民で、私はあなたとは異なる

」と錯覚し、お互いが同じように競争し合い、同じように自己を拡張しよ

うとし、自分だけの幸せと、願いを叶えようと神である相手をコントロー

ルし支配しようとしている。



私もあなたも同じ神の演技、殺すものも殺されるものも全く同じ神の演技。

同じように合い争い、相い殺し合う私もあなたも、おなじ神の演技であ

る自我がいかされている

全ての自我は、同じ自我であり、私もあなたも、敵も味方も全く同じように

錯覚のなかを自我として神が生きておられる。神の演技である私・あなたが

生きておられる。



神が思考し、行為し、殺すものと殺されるものとして生きておられるのでは

ないか?敵も味方も、殺すものも殺されるものも同じ自我、同じ命なのだ。


神が私という観念を使って、それぞれの私として自我を演じておられるの

ではないか?

他と分離していると絶対的に確信して疑わない自我とは実際には人類で共通

であり、神が全人類の私、自我として生きておられるのであろうか?


敵も味方も神、神が敵の私、味方の私、としていきておられる。

殺すものも殺されるものも共に同じ神に他ならない。



他と分離している私は錯覚。神聖なる鏡である魂を覆っている記憶、

私という観念の思考。

あなたとは私、私はあなた、同じ自我、同じ私という観念、その記憶。

この分離している私とは神の演技、あなたも同じく神の演技。

殺すものは神、そして殺されるものも神。私もあなたも同じく私として

神が演じておられる神の演技。人類の全ての自我は自分が生きていると

思い込んでいるが、実際は大生命が生きておられ、神が私として生きてお

られる。神はたましいにして、その神聖なる鏡には神の演技・記憶・自己

を映し出している。


この神の演技である私には、演技ではない私のことは分からないし、知ら

ないし、知ることはない。未知なる私とは、たましいの私のこと。命の私

の事。その命がここに生きている、そしてそのたましいを覆い包んでいる

この自我もこうして生かさせて頂いている。有り難い事である。ああ有り

難い、有り難い。

未知なる私とは、ここでこうして生きて呼吸しておられる私のことだ。尊

い神の子であるわたし、神聖なる鏡・魂のことだ。万物と分離していない

いのちの私のことだ。

自我も自我ではないわたしも神によって生かされている私である。私とは

この私を生かして生きておられる大生命、神である私、命である私のこと。

この人類の自我が知ることができない本当の私、神の御分心、鏡である魂

の私とは知識や思考や科学や情報では接近できないし知ることはできない

のである・・思考ではない生命だからだ。記憶というエゴやプライドで

という分離ではない超意識、それは意識を超えている生命だからである。




・・・その様に世の中の常識とは全く異なるのだが私は確信している。

熟考すれば、するほどにわたしにはそう思えて仕方ないのである。