恐怖を感じるとき私達はどうするのでありましょうか?

恐怖を変えようと、若しくは恐怖から逃げようとすることでありましょう。


恐怖ではない心は、恐怖を知覚しないからなのです。

恐怖ではないからです。

ですので恐怖を見ているのは誰かと言えば恐怖でありましょう。

恐怖が恐怖を見て恐怖を知覚して、恐怖から逃れようとし、解放されよう

としています。


恐怖が恐怖から解放されようとして祈ったりワークしたりして藻掻いてい

るのですから、恐怖を見ているものは恐怖であり、その恐怖は恐怖とは

怖に対して何も出来ないのだということ

を知らねばならないのでありましょう。



恐怖が恐怖から逃げようとしている、

恐怖が恐怖を消そうとしているわけですから

恐怖には恐怖を消すことは出来ないし、恐怖に対しては何もすることが

出来ないわけです。・・このことを恐怖は知らねばならないわけですから。


恐怖は恐怖を変えようとするのですが、恐怖は恐怖なので恐怖

を変えたりすることは何も出来ないわけです。

その恐怖を変えようとすることこそが恐怖の反応であり、かえって恐怖を増

大させ永続させています。

ですから恐怖を見ているものには恐怖を変えることが出来ない

と言うことを恐怖が知り、何もしないことが大切なのではありませんか?



なにかをすること、変えようとすることが恐怖を増大させます。

では恐怖に対して、何もしない、消そうとしない、恐怖から逃げようとし

ないとはどういうことでありましょうか?

それは自己解放、自己否定、自己超越なのではないでしょうか?

私にはそう思えます。


恐怖を変えようとしているのは恐怖であり、自分を変えようとし

世界を変えようとしているのが恐怖であり、記憶であり、自我なので

あることを知ったとき、恐怖は何もしません。何も出来ないからです。


ですので恐怖を変えようとしているのが恐怖であることを知ったとき

恐怖は恐怖に対して何もしないでただただ恐怖とともに一緒に

そこに留まるのであります。


恐怖をみているのは恐怖であることを見て恐怖と一緒にいるとき

恐怖にじっと耳を傾けるときそのとき恐怖からの超越が起こると教えられ

ています・・・・。



あるがままをあるがままに観ることがあるがままから解放であり

あるがままの超越なのだと教えられています・・・・。

あなたはどう思われますか?