「夫れ、人の心は天照大御神の御分心にして

我の心に非ざる故に

是を傷(いた)むるは天心を傷(いた)むるなり。

また是を養(やしな)うは天心を養(やしな)うなり。」

黒住宗忠



※黒住宗忠が言っている
 ①「人の心」とは
  私達の現在意識であり表面意識である「天照大御神の分身である人の心」
  のこと。即ち転生を重ねているコーザル体とそのサイコノエティック体のこと。
  現在は未発達で「真理の種子」であっても、また「我の心・記憶」に染ま
  ってしまっていても、本来は神の子であるこの現在意識の私の事。
 ②「我の心」とは
  私達の潜在意識にあって現在意識という「人の心」を占有している「私と
  いう観念の記憶・思考」である「我エゴの心」のこと。記憶からなる人格のこと。
  表面意識という現在意識を支配してコントロールしている全地球的な記憶
  のこと。エレメンタルである記憶のこと。 
 ③「天の心」とは
  天の心と言われるのは、現在意識である本来は神の子である人の心が
  繋がっている魂の心のこと。即ち思考や知性や理性を超越している超意識・
  魂の心のことであると思われる。

 この三つの異なる心のことを黒住宗忠は「人の心」「我の心」「天の心」と言っ
 ている。
 またここで黒住宗忠は普遍的な神聖なる実在、大生命、神の事を「天照大御神」
 といっている。
 
 
「神の国の人に生まれて常に信心無き事、恐るべし恐るべし」


黒住宗忠


※ここで言う神の国とはこの現象三界のことであり、特定の国のことではない。
現象三界とは、本来は現象界も実相界とは分離していないのにも関わらず
記憶という我の心から見ているので実相と現象が異なって見えている世界と
言うこと。このことの理解とは思考である理性や知性や知識やその分析的認識
方法や時間空間の認識形式では知覚できないので、「我の心」という
記憶による知性や理性である思考を用いることなく、「信仰」をもって
進んでいきなさい、歩みなさいと言っておられるのでありましょう。


「人の悪を見て己に悪心をます事、恐るべし恐るべし」


「立ち向かう人の心は鏡なり、己が姿を移してやみん」

黒住宗忠



※ここで黒住宗忠が「映す」や「写す」ではなくて「移す」
という表現を使っているのは何故だろうか・・
自己観察に於いて、己が姿を、相手の心を鏡として自己中
心的に己のことを客観的に「映して」見るのではなくて・・
即ち観察される自己という対象を、対象とは分離している我・
自己が観察者として見るということとは、自己を記憶でもっ
て見てしまっているので、結局のところ、その思考での自己
観察とは鏡である神の子の私を覆い包んでいるところの「我
の心=記憶」を強めてしまうことになってしまう。

・・このことを黒住宗忠は自他における悪を対象として見て
いる事自体が悪心を増すのであると言っているのである。
自己にも他己にも神の子を見なさいということである。
悪を悪としてみている私とは自分の中にある悪を対象と
して見ているのだと。そしてその悪を見ることが悪に
持続性を与えてしまっていると。

相手の鏡に写っている自分の姿(神の子であるのに記憶や
思考と一体化してしまっている人の心)をこの記憶と
してしまっている私が、記憶によって自分を見るのではなくて、
相手として現れている自分の姿を相手側から見なさい。
自分の姿を相手から見なさいという意味であるのではないか
と思われます。
自他を分離することなく、一切の全てをあるがままに
感謝して受け入れなさいと。
・・・ここは非常に黒住宗忠の言葉を理解することが難し
いところです。