行為者はいない行為があるだけだ
これは有名なクリシュナムルティーの言葉です。
他にも「思考者はいない、思考が有るだけだ」とも言われております。
彼は「思考しているのは私ではなく、思考が表面意識に起こっており、それ
を「目が覚めていない表面意識」はその思考と一体化してしまい、自分が思
考していると錯覚しているのですと。
実は思考とは?
私が思考しているのではなくて思考という記憶の反応が表面意識に表れてい
るだけなのだと言うことなのであります。
常識に染まり、地球人とは宇宙人なのに、宇宙人はいないと思っているよう
な低次な進化段階の私達には分かるはずもありません。
「思考だけで生きている私達」にはこのクリシュナムルティーの言っている
ことは全く何のことやらさっぱり分かりませんし、理解しようともしないこ
とでありましょう。
クリシュナムルティーやヒューレン博士のように「魂の霊的身体」が地球大
にまで拡大し「私の中に世界が有る」、「世界で起こる戦争やテロや経済の
責任は私にある」という自覚のある進化段階にまで至らない私達とは脳の持
つ五感や、潜在意識の記憶という思考に縛られていて
知覚は拡大していないのですから、当然のことながら、彼らの言葉は理解出
来るはずもありません。
この言葉を理解することは思考ではまったく出来ませんので現段階の表面意
識が記憶に包まれて濁ってしまっている私には
彼らは理解することが出来ません。
通常の覚醒段階の人類・・・「自他とは別々であり、分離している」。「自
分が思考し、自分が行為している」という「私という観念の記憶」と一体化
している私にはとてもとても理解することなど出来ません。
すなわち眠ってしまっている私達(たましいと繋がっている私)には一体全
体、彼らの言葉は何のことやら全くさっぱり分かりません。
脳と繋がった私達(たましいと繋がっている私)である「表面意識」(鏡)
は記憶に覆われて目が覚めていないからです。
私達(たましいと繋がっている私)の現状では
私という観念である記憶に覆い包まれ、私という観念が生み出す記憶・人格
に一体化しております。
この名前を持つ人格の私、欲望と希望と絶望を味わうこの自分を私だと錯覚
しているのは魂と繋がる私即ち現在(表面)意識の私なのです。
この私達(たましいと繋がっている私)は、未発達なので眠ってしまってい
ます。
私達の現在意識は
記憶という思考(人格)に覆われ、私達は肉体の五感や記憶に完全に一体化
しております。
なにせ、私達(たましいと繋がっている私)は肉体の脳が眠ると一緒に眠っ
てしまうほど未覚醒であり未熟なのでありサイコノエティック体は再形成
されていないということであります。
全く意識が目覚めていないのです。
(かく言うこの久保栄治も眠っていてクリシュナムルティーやヒュー
レン博士の言葉を理解することなどは夢の又夢です)。
勿論、理解とは「すること」や「なること」ではなく、やってくることだと
教えられています。
ですから現段階の私には何を考えても誤解なのですが、しかしながら誤解だ
と分かっても、眠っているこの私がクリシュナムルティーのような魂が目覚
めている方の仰る言葉の意味を自分なりに詮索してみました。
「行為者はいない行為が起きている」「思考者はいない思考が起きている」
とはどういう意味なのでありましょうか?
未熟な私が推測するには
本当は私達とは私(たましいと繋がっている私)であり、記憶と混濁して
いる現在意識です。
私達(たましいと繋がっている私)とは「全ての中に全てが在る」のに、そ
して自他は一つであり分離しておらず、「あなたは私、私はあなた」である
のに、主体と客体は一体であり、世界は私であるのに
〈私という観念の私(記憶の私)が肉体を自分だと錯覚し、肉体の知覚・五
感や、脳の状態を自分だと思い込んでいる〉という無知と一体化し、無知に
染まり、そして肉体に入った私達(たましいと繋がっている私)は「私とい
う観念」の無明・無知をそのまま受け入れてしまっております。
この現象界三界、(物質界・冥界・幽界・霊界)とは神の演技であり、私と
いう観念に覆い包まれている仮想世界。
神が私(私(記憶の私)=人格=エレメンタルの私)を使って行為(思考)
している現象世界なのですと。
私達(たましいと繋がっている私)は思考者ではなくて思考の観照者なので
す。
私達(たましいと繋がっている私)とは思考ではなくて、思考が表れては消
え去る「未熟であっても神の子の表面意識」なのですと。
世界と私は別々ではなくて、私は世界であり、私の中に世界があるのに記憶
である思考は内部と外部は全く別々だ、世界と私とは別々だと知覚している
のだと。
実際にはこの自己感覚を持っている人格の私とは私達(たましいと繋がって
いる私)を覆う記憶の反応なのであり、それは私自身、私個人だと思ってい
るが地球全体で一体の「私という観念」(根本無明)
であり、その記憶の反応(思考)だと言うことなのでありましょう。
それに対して出産時の最初の息で肉体の脳に繋がった私達(たましいと繋が
っている私)は記憶に覆われ、思考と行為に巻き込まれ、自分が思考し、自
分が行為していると錯覚しカルマ・輪廻の輪に囚われてしまっていると言う
ことでありましょう。
そういうことであるので、この五感という知覚から高次の超知覚へ、そして
さらには超意識へと魂と繋がる私のサイコノエティック体が再成長し知覚が
拡大し、記憶の持つ「時間と空間」という認識形式を超越しない限りは幾多
の輪廻を重ねても目覚めることはなく、闇の中で生き続けることになるので
はないか・・・と思います。