私、私達は神の演技であって、「万物一切と分離した私」は幻想であり存在


していないのだと

・・ラーマクリシュナは教えておられる。

神以外の個人や私、そして神ではない私やあなたとは存在していないので

あると。あらゆる私やあらゆるあなたは神であり、神の演技であると。

私やあなた、そして一切万物は神そのものであるというのである。

本当のあなたは万物の中に有り、あなたの中に万物はいるのであり

万物と分離している私とは神の幻想であると言うのである。

そういうことであるのに、そう見えないのは見ている目が虚偽という錯覚

に覆われているからである。

神以外にはなにものも存在しておらず、神がこの私・自己・知覚・認識・

意識を使って神が思考し・行為し、神が私個人として演じて生きておられ

るのだと。

それがそのように見えていないのは目を覆い隠している「虚偽」が虚偽を

見ているのであると。私達が見て、感じて、思って、考えているのではな

くて虚偽という記憶が見て、感じて、思って、考えて、そして行為して

いる。自分が思考しているのではなく記憶が思考しているのだと。

この私という疑われることのない「他と分離している自己」の存在感、他

とは別々だという自己感覚と自己意識、実体感覚・・それらはマーヤ

それらは神の虚偽であると。神ご自身がそのマーヤを生きておられるので

あると。自分が思考しているのではなくて記憶が思考しているのである。

そしてこの虚偽である私・エゴを支えるプライド感覚、私は私のものだとい

う感覚、自分のものだという所有感覚、私は個人人格であって他人と分離

していると実感される自己意識・確固とした実体感覚それらのすべての現

在意識や潜在意識の記憶を含めてそれらは虚偽であり、神はそれらの虚偽

マーヤを生み出しそして、マーヤをお使いになっているのであると。

私達が自分だと信じている私とは記憶であり、記憶の反応なのであると。

・・・それがこの輪廻の三界という変転・動転し生まれそして死に生々滅

する現象界。現象界という錯覚が支配する世界。

他と分離した私とは幻想であり本当は全く存在していないのである。それ

は神のマーヤであると。

この私、即ち万物一切と分離している私とは神のマーヤであり虚偽であり

、存在していないのであると。


この「私という万物とは分離しているという自己」意識、そしてこの私・

自己自身の個別性、オリジナリティー、五感、知覚、認識そしてこれらの

記憶・・これらすべては錯覚、神のマーヤ、神の演技。

この錯覚は神が創られて、神が演じて、神が私・個人としてのこれらの錯

覚を生きておられる。

肉体や脳や諸体が私のものではないように、知覚や記憶も私のものではな

く、私は私だと思っている私自身も私のものではない。私を観察している

観察者の私も観察されている私も神のマーヤであり、神が演じておられる。

この万物と分離している私、神と分離し、神と異なっている私は、本当

は存在していないのである。

この私とはマーヤ、蜃気楼、幻、神の演技である。


自分の思考だと思われている全ての思考や意識や知覚や認識や行為は神が

起こしておられる。

この現象三界とは物質界も死後の世界も神が演じる神の劇場なのであると。

この五感も、この自己感覚も、この憎悪や暴力を含むエゴ、プライド、自己

関心、そしてこの他と分離している私自身も神がお使いになっておられる

マーヤ、神ご自身がその虚偽を生きておられるのであると。

この私とは神のものであり、神であり、神が私として生きて演技しておら

れる。

私はいない。この他と分離している私はいない。この私は私がではなくて

神が私として生きて、そして神が思考し行為しておられる。

・・・とラーマクリシュナは教えておられるのである。