私達は私達の知覚とは万人が皆同じで、人類は同じの知覚だと思っている

のですが、
決してそうなのではないと思われます。

現在のパーソナリティーの進化段階とは各人で異なっているのであって、ヒ
ューレン博士のように「他者を自分の内部にいると知覚」し、そして「世界
で起こる事はすべて自分の責任である」というような高度な知覚に到達して
いる方も世の中にはいるからであります。


知覚認識には幾段階もあり、今の人類は悲しいかな非常に未発達であり、条
件付けられている脳が生み出している知覚、その条件付けられている知覚し
か知らず、その知覚と一体化しているので人類は高次の知覚が存在している
ことを知ることがありませんし、あったとしてもそれは認めようともしない
のだと言われております。


この知覚、それは記憶しか知覚していませんが。それは肉体の死後も続いて
いて、肉体を持っている滞在期間に、その高次の知覚を認識できるようにな
らない限りは、その限定された知覚状態は死後の世界においても、来世に於
いても続いてしまうことだろう。と言われております。

では、逆にこの現在の知覚や記憶が持つ知性や理性と言われているもので
はない超知覚・・・即ち記憶である思考が知覚している「内部と外部は別々だ
」と言う知覚ではない「内部と外部は同じである」というような高次の知覚
識があるのではないのか?ということであります。


そしてさらに、記憶が知覚しているところの二元分離の思考を超えていて内
部と外部という二元分離すらもない「未知であり真実の私の目」が見ている
非分離の世界の姿を見ているところの高次の目による超知覚があるのではな
いか?ということであります。

ではその超知覚とは一体どのようなものであるのだろうか?

もちろんそれにはこの記憶である私には答えられません。しかし
その段階に至った方々からの教えがあるのであります。



では記憶が見ている内部と外部の知覚と、記憶を超えている「思考なき目」が
見ている分離なき超知覚認識、時空を超えた超意識にはいったいどのよう
な違いがあるというのでありましょうか?






●「真実とは私はあなたであり、あなたは私であり、私とあなたは一つであ
  るのに、この記憶である人格の私には、そのことを全く知覚していない
  し、知覚できないでいる。」と


  相手とは私と同じく神聖なる私(たましいと繋がっている私)であり、
  穢れ無き鏡であるのに、私達は自分も相手も敬うことはせずに、常に善
  悪、敵味方に識別し、競争し何かになろうと欲し、恐怖に慄いていま
  す。

  その自他の鏡に映っている「記憶・我の心」には「相手を非難するこ
  と」しかできないでいます。

  それは即ちその「記憶・我の心」は「相手を非難することとは即ち自分
  自身を非難している事」であるということを知らないのだと言うことで
  ありましょうか。


  記憶には相手とは即ち自分自身の姿であるのに、その真実を決して理解
  出来ないので、相手の鏡に映っている自分の姿を非難して、「悪いのは
  おまえだ!」、「なんとかして分かってほしい!」、「なんとかしてく
  れよ」「なんで私を無視したりするんだ!」「おまえをよくしなけれ
  ば」などと自分を非難しているのですと。



●「全て一切は神であり、万物一切は神の中に生きている」というのに、条
  件付けられている脳の結果である記憶と同一化している現在のパーソナ
  リティーにはそのことが決して分からず、理解する事が出来ません。全
  ての全ては神の中に有り、神が生きておられるのに「私が私の人生を
  自分の力で生きている」、「この肉体は私のものであり、私は○○国民
  だ」、また神がカルマの法則を使って行為しているのに、記憶は「自分
  が行為しているのだ」と錯覚しているのだと言われております。

  記憶はその行為が起こった後に自分が行為していると実感(実は錯覚)
  しているので、「私が肉体を使って行為している」、「私が自分の意志
  で自分の思考で、自分が考えて行為している」、そして生きているのは
  神であるのに「自分が生きている」とその様に錯覚し、さらにその錯覚
  していると言うことにすら全く気がついておりません。自分は機械であ
  りロボットであることに私・記憶は気がついていないのだと言われてお
  ります。



●私達は私達(たましいと繋がっている私)であるのだが、この記憶に取り
 囲まれ、覆い尽くされ一体化しており、記憶が錯覚しているように自分は
 肉体であると絶対的に信じていて、脳が生み出している五感以外の超知覚
 のことは決して知ることがありません。知ることがないので否定しまいま
 す。

 未知で本来の私達(たましいと繋がっている私)が持っている超知覚や超
 意識、そしてさらにこの可能性のある私達には地球を越えて拡がっている
 身体があり、その身体が持っている超知覚や高次の認識のことは全く知る
 ことがありません。その時間と空間を超えて拡がっている超知覚や超意識
 があることはまったく知らないのです。

 そう言うわけで、本来の私達(たましいと繋がっている私)とは時間と空
 間を超えていることなど・・思った事も無く、考えた事もありません。
 何故なら現在のこの現在意識とは未だ眠っている私達(たましいと繋がっ
 ている私)が一体化している記憶の反応なのでありますが、それでも神
 の子なのです。
 しかしこの神の子の私の現在意識(表面意識)記憶に覆われていて濁って
 しまっており自分の事を知らないからです。

 混濁しているので依然として知覚の扉は閉ざされたままなのです。


 思考を超えた高次の超意識があることに気がついていないし、経験できな
 いのでそれを否定してしまい、そのようなことを言う人を変人扱いにして
 笑い飛ばしてしまうのです。



●肉体とは私達(たましいと繋がっている私)が宿っている仮の身体であ
 り、私達(たましいと繋がっている私)のこの状態とは目が覚めておら
 ず、眠ったままで記憶に包まれ、この潜在意識にある記憶と一体化してお
 りますが、しかしこの現在意識とは魂からの表面意識なのです。

 この神の子の現在意識(表面意識)を覆い隠している「無明」「無知」
 と言われているその「私という観念」こそ記憶であり「我の心」です。


 私達(たましいと繋がっている私)はその記憶が起こしている思考と同一
 化して、私の肉体だ、私は肉体だ、自分が思考している、自分が行為して
 いるのだと言うその記憶と一体化して目覚めることがありません。

 ・・・それはこの未発達の私達(たましいと繋がっている私)は限られた
 脳の知覚しか知覚されておらず、五感を超えている超五感や超意識が存在
 していることを知らず、知覚していないからであります。


 私達は目覚めておらず、眠っています。この知覚は私達の本来の知覚では
 ないことを知りません。

 この五感ではない高度の超知覚が在ることを知りません。

 私達(たましいと繋がっている私)は神の子であり、決して記憶ではない
 ことを知らないこの神の子の表面意識私とは、「私は誰か?」の質問に
 答えることが出来ないでいます・・・・眠っているからです。
 
 私達(たましいと繋がっている私)は眠っていて目が覚めておりません。
 ではそれにも関わらず、知覚し認識しているこの現在意識の私とは誰でし
 ょうか?
 この限定されている知覚を知覚しているのは誰でしょうか?

 それは目が覚めていない私達(たましいと繋がっている私)なのです。
 
 もし私達(たましいと繋がっている私)が魂との繋がりを再確認できれば
 そこには三体が整合し、思考を超えている本来の超知覚と超意識が顕現し
 「私の中に世界が有り」「世界の中に私が在り」「私とあなたの分離分割
 はない」ことが明らかになるのでありましょう。