以下は聖者の言葉の意訳です
私達には自己SELFとその影の二つがあります。
影の自己、即ち現在のパーソナリティー(人格・エ
レメンタルの私)とは絶えず変化する時間空間内に
於ける自己(※記憶の私)であり
それは特定の意識と無意識即ちサイコノエティック
体でもあります。
私達(※転生している私、魂と繋がる私)がそれら
のエレメンタル(現在のパーソナリティー・人格)
を創造し、諸体を形成し続けています。
現在のパーソナリティー(人格)とは潜在意識に
貯蔵されている今までの体験の結果でもあり(※
記憶ということ)、その結果が私達(※転生して
いる私、魂と繋がる私)に何に興味を抱くのか、
や考え方や行動を主導しています。
そしてこの人格の高低によってそれに惹かれるエ
レメンタルをさらに引き寄せてしまっています。
(類は友を呼ぶ)
私達(※転生している私、魂と繋がる私)の認識の
仕方、野心、人生の生き方などは、それら私達が生
み出した人格(エレメンタル)によって影響されて
います。
現在のパーソナリティー(人格)のわたしとしての
私達はこれらの私(※転生している私、魂と繋が
る私)から生み出されたエレメンタル以外の何ものでも
なく、それらのエレメンタルが私達(※転生してい
る私、魂と繋がる私)の形態を帯びていることが分
かるでしょう。
私達の現在のパーソナリティー・人格とは、つまり
私達の現在の自己とは私達(※転生している私、魂
と繋がる私)が生み出したこれら全てのエレメンタ
ルの総計であると言えます。
これらの現在のパーソナリティー(人格)の私とは
私(※転生している私、魂と繋がる私)に責任があ
ります。私が生み出したからです。
私達(※転生している私、魂と繋がる私)がそれら
をエーテル体の鼻の付け根付近から投射したのであ
り、それらが又元に戻ってくるのです。
私達(※転生している私、魂と繋がる私)がそれら
のエレメンタル(現在のパーソナリティー・人格)
を創造しているのです。
そして、それらの総計が人類の現在のパーソナリテ
ィー(人格)の総計になります。
「自分自身」である現在のパーソナリティーの私
(人格)については完全に私(※転生している私
、魂と繋がる私)に責任があります。
現在のパーソナリティーとは、私(※転生してい
る私、魂と繋がる私)が生み出した人格(※記憶の
私)だからです。
私達(※転生している私、魂と繋がる私)は、私達
が生み出したエレメンタルである私・人格(記憶の
反応)に覆われているのです。
※この何気なく自分自身を私だと漠然と意識している私達
には、実は脳からの私と、その脳と結合した魂と繋がる私
とその脳と結合した私が生み出し続けている記憶の私
が表面意識の中で混じり合って、入れ替わり、立ち替
わり出現していると言うことでありましょう。
それでは具体的な内面の意識構成とはどうなって
いるのでしょうか?この複雑極まりなく理解しがたい
私達人間の私の構造を私なりに考えてみました。
ここからは久保栄治の私見です
私達の平均的な現在の表面意識の15~20%前後
がこの「魂と繋がる私の自己意識」(前世からの転
生を続けている夫々に特性のある私達の意識だが恩
寵によってその過去世の記憶は表面意識には現れな
い)であり、
表面意識の残りの殆どは潜在意識にある膨大な記憶
と、私達が肉体に入り脳と結合した結果生み出した
「エレメタル・人格の自己意識」の記憶
の反応だと言われております。
しかしごく稀に諸体が整っている人には「魂からの
自己意識」がインスピレーションとして輝くことが
あると言われております。(私は経験していません)
この諸体とは霊体、幽体とも思考体、感情体とも言
われているサイコノエティック体のことで、記憶である
現在のパーソナリティーの状態と段階を表わしていて
死後、霊界での再誕時にはその「現在のパーソナリ
ティー」のエッセンスはコーザル体に吸収され、コ
ーザル体は再び入る「新しい胎児のなかで肉体と共に
育っている諸体」に結合されていくと言われております。
それは胎児の最初の吸気と共に、大生命と共に私達である
輪廻転生している「魂と繋がる私」が肉体とその脳及び
諸体に結合する・・ということであります。
ということでありますから私達の意識においては
寝ても覚めても、夢の中でも、「魂と繋がる私の
自己意識」はごく僅かでありまして「本来の私で
ある魂の私」の自己意識は殆ど皆無であると
いうことであります。
それは私達のサイコノエティック体が未形成の
ため、頭脳の意識の座とそのサイコノエティック体を
繋いでいるエーテル複体が機能していないためであり
ましょうか。
私達「魂と繋がる私の自己意識」の現在意識の殆どは
私達の潜在意識にある記憶の私、即ちこの「エレメン
タル・人格の自己意識」という記憶の反応である「エ
ゴ」によって穢され覆い包まれていると言うことです。
私達の意識は記憶によって混濁しているのです。
そういう状況なので私達、このエゴである私即ちこの
「エレメンタル・人格の自己意識」という記憶の反応
の私と、「魂と繋がる私の自己意識」の私とが一緒に
なって一生懸命に努力を続け、少しでも「魂である
本来の私の自己意識」に人格の私が近づくことが出
来る様に努力し精進しなければならないと思います。
しかし時々息をしている呼吸を見るとある考えが
起こります・・それは
私が息をしているのではなく大生命が息をしておら
れる様に感じられるのです。
生まれるのもそうですし、死ぬのもそうでしょう。
大生命があらゆる生き物たちとして生まれ、成長し
戦い、悩み、死んでいるわけです。
また同じようにいのちである大生命が肉体の脳と
諸体を使用して、即ち思考や感情や知覚や認識を
使って「私・個我」として演じておられる・・
のではないかと?
即ち私が生きているのではなくて、神が全ての
生き物や生き物ではない万物として生きておら
れるのではないか
・・と思うことがあります。
私もあなたも、戦争で殺し殺されているものも、
そして一切万物、生まれて死ぬ一切は
神の演技なのではないかと・・。