未知なる私と既知なる私




自分とは?この私とは?

まずはじめに、この私即ち既知なる私は自分の事を「私は肉体であり、

肉体は私のものだ」と確信していますが、私は肉体にいますが

私そのものは肉体ではない、と思います。肉体は私のもので

はないのです。私が肉体を創ったのではなくて使わさせていた

だいているのです。勿論動物たちと同じように、「肉体そのも

のである私」「脳の結果である私」も、この既知である私と

同居しており、現在意識を構成しています。しかしこの人格の私とは

記憶の私であって「脳や肉体から生み出されている私」ではありません

従ってこの「既知なる私」とは「自分は○○国の○○人だ」と自分を

肉体や脳と一体化していますが、私は特定の人種でもなく、特定の国民で

もないということです。過去世では度々今までに色んな場所に色んな人種

にも生まれてきているからです。

肉体は大生命のものであり、私はこの特定のDNAによってプログラ

ムされた三つの脳を持つ肉体を使わせていただいる私です。即ち「肉体と

繋がった既知なる私」であることをまずはじめにハッキリ明確にした

いと思います


けれども私とはこの肉体とそしてこの記憶である「既知なる私」だけ

で構成されているのでしょうか?

私とは既知なる私と、そして「既知なる私にとっては未知なる私」とで

構成されている複合存在なのだというのです。これを話しているのは既

知なる私であって、この既知なる私にとっては未知なる私の事は全く未知で

あり、何も知らないのです。


しかしながら既知なる私が未知なる私と融合した先達の話から

未知なる私が実在していることを教えられております。

そして

私達既知なる私は未知なる私が実在しているからこそ

いまこうして実存することができているのだと教えられて

おります。この既知なる私は未知なる私が支えているのだと・・。

けれどもかく言うこの私は既知なる私なので未知なる私の事は何も知

らないし分からないので何も話すことは出来ません。



ではこの私、既知なる私とは何でありましょうか?

この私は記憶であり、記憶の反応なのではありませんか?

個々のPCはネットで繋がっていてサバーの記憶が作動して

応答しているように、既知なる私達はその単体PCの記憶なのであります。

ではそのクラウド上の記憶とは何の記憶なのでありましょうか?

それは「私という観念」の記憶であり、それは「やった、やられた」

「私の」「私が」というプライド、自己関心・全自我の記憶であります。

この既知なる私とは今までの全人類の全ての記憶の集合体であります。

そしてその私のプライドの中身は恐怖と不安、無知であり無明であります。

無視されて傷つく私、自尊心で悩み苦しむこの私とは「記憶の私」なの

です。

ハッキリと言うなれば既知なるこの私は人類共通の私という観念であり

その記憶の中身は「やったやられた」と言う記憶であり恐怖そのもの

自我そのものなのであります。人類は皆兄弟姉妹、この私とは何

を隠しましょうか人類で同じ地球人の記憶自体であります。



そしてこの記憶の私は思考という自他を分離する二元性しか使えないので

「自分自身を投影して相手として知覚認識しているのです」という思考を

超えている「超知覚超意識」から観ている非分離・非二元の目から見て

いる教えのことを全く理解することが出来ません。


思考を超えた「思考なく見ること」、即非二元の超意識の知覚である

「私はあなた、あなたは私」「相手とは自分であり、相手は自分の中に

いるのだ」「あなたが非難している相手とは自分自身の姿なのだ」「相手

鏡に自分自身を投影して自分自身を非難しているのである。」といくら教

えられていても、思考である既知なる私にはそれを理解することが全く出

来ないのです。



さてここで改めて

既知なる私という記憶からの反応と、プログラムされている肉体や脳から

生じた起こっている事とは全く異なっているということを明確にしたい

と思います。ここで重要なのは既知なる私とは起こっている事そのもの

ではないということです。才能や障害という肉体の状況や脳自体の活動

ではないと言うことです。

既知なる私とは、起こっている出来事ではありません。起こっている事に

反応し思考し感じて行為している私です。既知なる私とはこの三つの脳と

肉体に複合している現在意識の私であり、それは記憶の私であり、起こ

っている事に反応している記憶であり、その中身は、恐れ、善悪を判断

し、自他を憎み、苦しみ、不安で怯え、一生懸命に目的を持って生き

ている私がこの記憶の反応である私、即ちこの私のことなのであります。

この私は五感にのみに縛られて、諸体の感覚や更に拡がりゆく高次の

諸体の感覚や意識のことは全く何も知らないのです。五感と思考しか

知らないのです。「見るものは見られるものである」という非二元の

超意識、「思考なく見ている目」のことは何も知らないのです。



さて、起こっている出来事とは肉体の本能や条件られた頭脳の起こす行為や

衝動、感覚や欲望、才能や障害そしてDNAに従って起こっていることです。

それはまた思考であり、五感であり、内部に外部に必然的に避けられない

カルマと運命に従って起こっていることです。

大生命が使用している肉体と三つの頭脳の状態が引き起こしていることで

あります。


そして

その内部と外部の起こっている出来事に反応している私。それ

がこの既知なる私。即ち記憶の反応である私のことであります。


既知なる私とは、肉体を自分だと錯覚し、この必然的に起こってい

る運命に、一喜一憂し、喜び悲しみ、悩み苦しみ、愛し憎み合いながら

人生を生きている私。私達が自分自身だと確信している私の事です。


この既知なる私とは記憶であり、記憶とは専門的には現在のパーソナリ

ティーであり、現在のパーソナリティーとは未形成のサイコノエティ

ック体の私、未知なる私からコーザル体を経由して輪廻の都度に新た

に異なる人種、異なる国の、異なる性で異なる環境の、異なるプログラム

DNAをもって誕生するこの人格の私のことであります。

それがこの現在意識の私、判断する私、考える私、恐怖している私

そしてエゴに気がついている私。このエゴという記憶である私が

自分の中と外に、内部と他者の中にエゴを見ているのです。


肉体の死後も生き続けている、この記憶でありサイコノエティ

ック体という現在のパーソナリティーの私がこの既知なる私であります。

この私が自分自身を自己観察し、そして同時に自己想起すなわち、自分を

支えている未知なる私、「超意識である私」「愛である私」へのワーク

を実践することによって、

そしてまたさらに恩寵によって2番目の死を通じて生まれ変わらなければ

既に実在している未知なる私は顕れない、即ち私が誕生しない、

私は目を覚まさないと教えられているのであります。