あるがままをあるがまま見るための四つのステップ



あるがままをあるがままに見るためには四つの段階があるという

ことでありまして、その教えを紹介したいと思います。


私達はあるがままをあるがままに見ていると思い込んでいますが

それは間違いであり、私達が内と外に見ているのは決してあるが

ままではないということなのであります。私達が見ているのは私達

の潜在意識にある記憶の世界なのであるというのです。

私達が見ているのは自分の心の中の姿であり、その心が

目の前の相手として現れたり、環境として表現されて

いると言うことですので、私達はその自分の心に対して

愛と感謝を捧げることが重要なワークだと教えられております。


では自分が見ているその内部や外部とは誰が見ているのであり

ましょうか?

それは、自分が自分だと思っているこの私のことであります。

ではこの私とは誰なのでありましょうか?

それはこの私とは記憶なのです。この私とは私の潜在意識の

中に有る記憶なのです。欲し、計画し、願い、考え、見て、

判断して、行動しているのは私の中に有る記憶なのです。

その記憶が知識を獲得し自分を高次の私と低次の私に

分割して、この私はどの私なのか?と尋ねているのです。

記憶が記憶を見ているのです。記憶を見ている私とは記憶なの

です。世界の戦争と殺し合いを、自分の内部に恐怖と不安と

憎悪と高慢などのエゴを見てエゴを非難しているのは記憶なのです。

記憶の私が見ているあなたとは私の中の記憶の姿なのです。

そしてその記憶が記憶を非難し、記憶を避けようとしています。

その記憶とは私の潜在意識の中にあり、私の責任なのです。


ラマナ・マハリシ達の本を読んで自分はラマナ・マハリシが教えて

いるように、あるがままを見ているのだと錯覚していますが・・そ

れは身の程知らずでありましょうか。

無知が無知を見ているのに自分は真我という神の子であり、あるが

ままをあるがままに見ているのだと錯覚しているのです。



「あらたに誕生した目」である私達とは幾重にも覆う「虚偽」「記憶」に

包まれているのでこの虚偽・記憶が祓われ清まらなければ「新たに誕生し

た目」は決してあるがままを見ることは出来ないということであります。


この私達である「新たに生まれた目」からその目を覆い包んでいる「虚偽」

「記憶」が祓われて清まらなければ、決してあるがままをあるがままに

見る事はありませんと教えられております。もし目が浄まるならば

ヒューレン博士が言うように目の前の相手とは私の中にいることでしょう

し、世界は対象としてではなくて私の中に世界が有ることでありましょう。




第一段階:「私はあるがままを見ていると思っているが、あるがままを

       見てはいない」ということ、「私が見ているのはあるがまま

       ではない」という事実にハッキリと気がつくこと。

                     この世界は記憶が記憶を見ている記憶の世界であり、

       見ている私も私の中に有る記憶なのであって、けっしてある

       がままの世界ではないということであります。 


第2段階:「虚偽を虚偽と見ること」

      虚偽を見ているものを直視すること。

      この虚偽を見ている私に気がつくこと。

      「虚偽が虚偽を見ている」事に気がつくこと。

      「記憶が記憶を見ている」事に気がつくこと。

      「私が見ているのはあるがままではない」事に気がついた後に

      、では、誰が虚偽を見ているのか? と尋ねることでしょう。

      それは「虚偽」が「虚偽」を見ているのです。と

      それは「記憶」が「記憶」を見ているのです。と

      私が見ている相手とは見ている私自身の姿なのです。
  
      その見ている私を、即ち「エゴ」「虚偽」「思考」「恐怖」
 
      が見ているということをハッキリと認識し熟視し凝視するこ

      とであります。

      「記憶」「無知」「善悪を知るリンゴの樹」「低次思考」などと

      呼称されるわたしが自分の姿を見ているのです・・・というこ

      とを理解します。

      自己凝視によって自己観察をしている
私即記憶=恐怖が恐怖を

      見ているのであるということに気がつくのだと言われており

      ます。思考(恐怖)を見ている者とは思考(恐怖)なのです。

      虚偽が虚偽を見ていることに気がつくこと。

      自我を見ているものは自我自身であることを知ること。

      自我が見ている内部と外部は自我自身の姿であることを知るこ
    
      と。

      私はけっしてあるがままをあるがままに見ているのではない

      ことを理解すること。


第3段階:「虚偽を虚偽と見ている事の中に真理がある」

      「虚偽が虚偽を見ている」事をみているものに気がつくこと。

      「見るものは見られるものである」に気がついている気づきの
 
       中に真理があるということ。

      「見るものは見られるものである」を見ているのは「気づき」

      でありそれは真理であるということ。それは全く私のことを忘

      れている鏡の状態。自己関心がまったく存在していない無我。
  
      空の意識状態。拡がった意識、拡がった目である意識の事。

      神の子である私、天照大御神の御分心である神の子の私の事。

      残念ながら私は、これを知らないし理解出来ないし、全くその
   
      段階ではないのでこのことについては書くことが出来ません。

      ・・恩寵が未だ下っていないからです。


第4段階:「真理を真理と見ること」

      あるがままをあるがままに見ている状態。ヒューレン博士が言

      う「I AM I」空の意識の事。穢れが祓われた鏡の状態の意識の
  
      事。「自分自身」「セルフアイデンティティー」のこと。

      クリシュナムルティーのいう「中心を持たない目」、遍在し

      ている目のこと。地球にまで拡大している意識の事。

      「真理を真理と見ること」この段階においてラマナ・マハリシ

      のように「あるがままをあるがままに見ている」「すべては良

      し」と言えるのであって、第一段階にすら達していない私には

      とてもとてもその意識のことは分かりません。

      到底あるがままをあるがままに見ているその状態を話すことは

      不可能ですし、あるがままとは何かを分かりません。

      この段階に於てラーマクリシュナのように「全ては神の演技で

      す」「全ては神であり神以外に何も存在していません」「全て

      が完全完璧、愛するに値しないものは何も存在していません」

      といえるのであって、幾重にも記憶に覆われ包まれている

      私(新たに生まれた神の子)にはその境地は知るよしもあ

      りません。