「私は肉体の中にいる」のではなく、「私の中に肉体はある」





ふと「私は肉体の中にいる」のではなく、「私の中に肉体はある」・・

とその様な思考がやってきたので書き記してみたい。



通常私達は、私・自分とは肉体の中にあると思っているけれども、実際には

私の中に肉体はあるのである。

肉体の中に私はいると思っているのは記憶であって、そう思っているのは

魂と繋がっている私ではない。

しかしながら通常の人生では私達はそのように錯覚している記憶に支配さ

れていて、記憶からの自由はないのである。

・・・というのである。





私である現在の私達には至高なる実在から「魂と繋がっている表面意識と

潜在意識」そして肉体や諸体が与えられている。・・・それが私達であると。


私達である表面意識は「鏡」であり、「鏡」を常に清浄にして愛と感謝で満た

すべきであるけれども、私達の未熟で未だ目が開いていない表面意識では

殆ど眠ってしまっており、カルマという必然性によって起こっている内部と

外部の起こっている出来事に対しては、常に必ず潜在意識にある記憶が

反応して行為し、知覚し、認識しているのであると。

私達表面意識では寝ても覚めていてもその記憶が表面意識を覆い隠

しているのである。自分の意識だと思っているのは記憶の反応でしかない

のであろう。


従って、この記憶が常に日常生活においては、内と外に起こっている事全般

に対して反応し行為している。

記憶即ちエゴであり、必ずこの記憶が見ている目の中には「他と分離している私」

がおり、その私が内部と外部を見ているのである。

私達は目が開いておらず、眠ってしまっているので、この自分の意識だと思っ

ているのは記憶の低次思考であり、記憶の知覚認識なのであることを、記憶が

自覚していないのだと。



私達は眠ってしまっているので記憶が見るように見て、記憶が考えるように考え

記憶が行うように行っており、自由が全くない意識状態にあるのである。

私達の意識は記憶に覆われ包まれ「私の中に肉体はあるのに、肉体の中に

私はいる」と正反対に真逆に知覚し認識している・・・と言うのも私達の表面意識は

殆ど機能しておらず眠ったままであるからである。眠っていても、夢の中でも、そして

目が覚めていても、私達は眠っていると。





そこで私達である魂と繋がっている表面意識は記憶である「低次思考(※低次思考

とは自他を分割し、自他を非難し、善と悪とに分け、自分である恐怖から常に逃げよ

うとしているエゴである)」に占領され続けないように、記憶からの反応が起こった際には

魂からの愛という「高次思考」を直ちに選択して、その「高次思考」に従って「記憶」の浄化

を至高なる実在にクリーニングしていただけるように、その神聖なる実在にお願いするという

ことである。神道で言う「祓い給え、浄め給え、幸はえ給え」を唱えるのである。

それはつまり、私達である神聖なる「鏡」から記憶という穢れを祓い、清めていただけ

るように「神聖なる実在」お願いすると言うことである。そして私達の潜在意識にある

その記憶が恩寵によって徐々に薄れて行くにつれて、自己関心が和らいでいき、自分を

忘れて人の気持ちが分かるという恩寵がくだってくるのである。その時私達は「私」という

呪縛から解放され、本当に人のことを心配し、人のために生きることが出来るようにな

ってくると教えられている。



この為には常日頃の日常生活においては、記憶の反応である「低次思考」というエゴ

に同調したり、記憶が起こしている行為や、欲望や、動機や願いに決して同一化

しないで、それらの記憶の反応に対して、魂と繋がっている私達表面意識が持っ

ている「高次思考」を用いて、その記憶から起こっている低次思考である欲望や

希望や不安や自由意志、善悪美醜という判断や、評価、そして暴力と自尊心など

に対して「ありがとうございます」「愛しています」「御免なさい」「許して下さい」と

絶えず唱えて愛を捧げることであると。



このようにして私達は魂と繋がってはいるが殆ど眠ってしまっている表面意識

はこの高次思考を用いて「鏡」から記憶が祓われ清まりクリーニングされて本

来の透明な鏡になる事が出来る様に絶えずワークを実践することが出来るの

であると言うことなのである。