あおり運転


 このところ日本のテレビ番組ではさかんにあおり運転のことを流しているが

 日常的に車を運転している私達にとってもこれは身近な問題なので、今日は

 このあおり運転について考えてみたい。


 私達も車を運転していて後続車からあおられた経験はおありのことだろう。

さてここで、あおられたとき、私達はどう反応しているのだろうか?

 それはあおられていると実感したとき、同時に私達も今度は逆切れし

 「こん畜生煽りやがって許さん!」という反応が即座に起こり、それ

に対して「いやいや、そんなことで怒ってはいけない自分を律さなくては」

という常識の反応が起こり、腹は立っているがなんとか自分を抑えてい

る・・・と言うのが煽られたときの通常的な平均的な反応パターンである

ことだろう。

 

これは相手が悪くて自分は被害者だという・・・常識的思考即ち記憶の反応

である。


 がここでよく立ち止まって、その「煽られた」事に対する自分の反応を観

察して見ると相手の「煽る心理状態」を知覚している自分の「心理状態」と

は相手と全く同じレベルであり、同じように同一の反応が起こっていること

が分かるのである。

 「ワンと吠えられればワンとやり返す」「目には目を報いる」という同じ

レベルからの同じ 反応が同じベースから起こっていることが分かる。

 その私と相手と同じベースというのが、私と相手が全く同一の「記憶」から

起こっていると言うことなのである。



 ここでいう「記憶」とは人類が共有している「私という観念」「自我・エ

ゴ」のことである。この記憶とは自分自身を分割して、自らを見ている主体

と見られている対象に分離しているのであり、「自分自身のことを分離して

相手の鏡に投影し、自分のことを他者だと知覚し」相手(実は自分)を非難

し軽蔑している「自我」 のことである。


「自我・エゴ」は神道では「我の心」と言われて、本来の神の子である

「鏡」を覆っている穢れであるといわれている記憶のことである。



 後続車の煽り運転をする人と、煽られている私は同じ反応が同じベースから

起こっている・・・それが煽る人と煽られている人に共通の「俺が俺が」

「自尊心」「プライド」「自己関心」などと言われている「エゴ」なのでは

ないだろうか?

 この「エゴ」は全ての人類の鏡を覆っている人類同一の各人の潜在意識にあ

る記憶なのだとヒューレン博士は言っている。



 両者とも同じ「記憶・エゴ」から同じ反応が起こっており、後者の煽られて

いる方はなんとか自己矛盾しながらも我慢し、自分を粉塗して社会的な体裁

を保っているだけなのである。

 両者ともに潜在意識にある記憶(私という観念の記憶)が自動的な反応を起

こしており、それは自動的且つ機械的に反応が起こっているのである。

 

煽られた方の人は、煽っている相手を非難することだろうが、その煽られて

いることを知覚認識しているという事実が、煽った相手と煽られた方は同じ

記憶が同じように反応し「煽り」を知覚していることに気がつくべきなのか

もしれない。

何故「煽り」を知覚することが出来るのだろうか?それは知覚する者の中に

「煽り」があるからということだろう。

 これを異なる表現で言えば、煽られていることを知覚している私は、私自身

を対象として相手の鏡に自分自身を知覚していると言うことだと思う。

 「立ち向かう人の心は鏡なり己の姿を映してやみん」という真理の言葉を引

用するまでもなく自分の事を煽った相手とは自分自身の姿なのである。

そして私は自分の姿を相手の鏡に投影して自分を非難しているのであると

いえる。

 


自分が相手に煽られているのではなくて、煽っている相手は自分であり、自

分が自分を煽っているのだ。

 あおり運転をした方の人からすればあおり運転されている相手とは、自分自

身なのである。

 では私が傷つけ、苦しめ、搾取し、煽ってしまった相手とは誰なのであろう

か?

 自分が虐め憎み嫌がらせをして苦しめた相手は自分自身なのである。

 だから、その自分を苦しめている自分のことを許し、懺悔し、自分を愛し、

感謝する事によって、この自他において自動的に条件反応している記憶の私

を愛するのである。

そして記憶を愛することによって記憶から解放されていき、神から与え

られている本来の鏡の輝きを取り戻すのであると教えられている。

記憶からの解放は記憶に感謝し、記憶を愛するしかないと教えられている。

私達は相手に接しているのではなくて、相手の鏡に映っている自分の姿を

見ているのである。相手に接するためには私の潜在意識にあるこの記憶が

浄化され、クリニーングされなければ相手に出会うことは出来ない。


 「汝の敵を愛せよ」である。


だから私が苦しめた相手とは、私の中にいるのであって自分の外ではないこ

とだろう、実は相手とは自分自身だったことを知覚して自分の中に許しを請

ということが大切なのではないだろうか。それは丁度「肉体の中に私がい

るのではなくて、私の中に肉体がある」のと同じように、相手とは私の中に

いるのであって私の外ではない。

自分の中にいるその相手に対して苦しめてしまったことをお詫びすので

る。 


それ故に相手という自分自身を愛することがあおり運転の本当の解決なので

あることだろう。