起こっている事に記憶が反応している
「起こっている事に対する記憶の反応」に関してホ・オポノポノなどの教えを参考にして、
自分なりに解釈しました。
それは即ち
「出来事・・それは必然的に起こっている衝動や行為などのこと」に対して自動的に反応
している記憶(思考・想念)のこと。
そして、
更にその「記憶の反応に対する【魂と繋がっている私達】が選択する態度」
について思索してみました。
通常の人生では生活中に起こっている内面の状況を余り自己観察することは
ありませんが、内面及び行為に関して自己観察の内容を整理するにつれて色
々と明らかになってくることがあります。
それは既に決定していることとして運命的に必然性を持って生じている出来事や
行為、衝動があり、それらに対して内面の潜在意識からの記憶・私という観念からの
反応が起こっていて、更にそれに対しての私達の態度の決定があると言うことだ
と思います。少々複雑なこの心理的、内面的な考察です。
①起こっている出来事(運命・カルマ・DNAから)
↑
②その起こっている出来事に対する「私の記憶」(即ちエゴ自我)からの反応
↑
③この私の記憶の反応に対しての「魂からの私」の態度
という事が、私達の日常で繰り広げられております。
①起こっている事とは
・肉体の才能や状態、脳の状態、人種、性別、境遇などDNAのプログラムに
従って決定されていて必然的に起こっている内部と外部の出来事。
・決定されて起こっている行為そして、それに伴う選択や決定や意志など。
・具体的には起こっている衝動、欲求、成功、失敗、誕生、死亡、病気、健康など
それらとはカルマによって必然的に起こっている出来事、運命、宿命のこと。
・これらの起こっている事とは人知を超えているので現段階の私達には選択の
余地はない。起こる事は起こるし起こらないことは起こらないといえる。
②起こっている出来事に対する記憶という過去からの反応とは
・人格やエレメンタルと呼称されている「記憶の私」即ち自我の反応のこと。
・記憶の反応とは思考のことである。思考とは記憶が反応しているのである。
・記憶の反応である思考による判断や評価。善悪の判断や、敵と味方の区別。
自他分離の知覚、競争心、自尊心など「私という観念」から起こっている反応。
・記憶・人格は①の出来事が起きた後にその出来事を生きている。
記憶・人格は①の起こっている出来事を自分が起こしていると錯覚している。
・人格である記憶はその出来事が起こっている最中にその出来事に
参加したり、出来事を変えたり、出来事に影響を与えることは出来ない。
・記憶・人格は自分が自由意志を持って選択して行動していると思い込んでいる
が選択や行為とは①によって起こっていることであることを記憶は知らない。
それ故に今度はその記憶から記憶による行為が起こり、それと同時に「記憶
と一体化している魂からの私」は記憶が行うように同じように行うことでエレメ
ンタルを生み出し続けている。
・思考や感情から成り立っている人格は「私人格」そのものが記憶の反応である
ことを知らない。
・記憶と「魂からの私」は一体化し「坩堝状態」であるので、どこからどこまでが
記憶の反応で、どこからどこまでが「魂と繋がる私」であるのかを判別するこ
とは出来ないし、するべきではない。聖書のたとえ話にあるとおり、成長する
までは、それが記憶の反応なのか、「魂と繋がる私」なのかの判別は出来ない。
③起こっている事に対しての「記憶からの反応」に対しての「魂と繋がっている私」の
態度のこと。「魂と繋がっている私」の輪廻の回数が少なく、未だ殆ど動物と
変わらない未発達な状態の自己意識(セルフエピグノーシス)である人の場合
同一化するのかそれとも記憶を浄化するのか。選択がある。
下記ホ・オポノポノの図では表面意識のことをさす。(殆どは②に流されている)
下記の一番下にある画像ファイルの中での「コーザル体」がPCと接触している
部分の「私」のことである。意識とは意識の座のことであり、意識の座を覆っ
ている中身である思考ではない。意識とは思考ではない。
・表面意識の私とは真理の種子といわれている自己実現の可能性のある
「魂と繋がる私」の事であり。表面意識を覆い隠している思考のことではない。
・ホ・オポノポノでいうところの表面意識のこと。(神道では鏡、天照大御神
の御分心のこと)
・必ずや卵の殻を打ち破り大空を飛翔する鳥のようになる可能性のある
魂と繋がっている私の事。いまだ卵の中にいる状態の私のこと。
(蝶へと脱皮する前の蛹の状態の神の子)(幾重にも思考と記憶に包まれ
ている天照大御神の御分心・鏡の私)
・起こっている出来事そしてそれに反応する記憶に対しての態度をこの私は
選択し決定することが出来る。この私には自由意志が有る。
・自由意志のある私即ち下記の図の「魂と繋がる表面意識の私」(空なる鏡)の事。
・この魂と繋がっている私は眠っていて目が覚めておらず②の記憶の反応
のまま記憶が思うように思い、記憶がするように行い、記憶が欲するように
欲してしまっている。記憶と完全に一体化してしまっている(下記の図参照)
①の起こっている出来事に参加し、それを変えることが出来るためには
自分の中の②の記憶が浄化され、記憶から解放されて不定形の諸体に
関するワークを行い、諸体を再形成することが必要。
この③の私達の状況を非常に的確に示しているホ・オポノポノの解説図
を紹介したい。下図では記憶と一体化していて私達である表面意識は超意
識とつながりが殆ど失われかけている。
但し、このホ・オポノポノの図は内面を心理学的に把握している図であり
霊的解剖学、超越科学的に肉体やエーテル複体やサイコノエティック体等
や更なる高次の時空を超えている高次身体との関連を示しているもので
はない。
私達である魂と繋がっている表面意識は、私達の潜在意識にある私達
の記憶と一体化していてカルマによって必然的に起こっている出来事に
対して記憶が反応しているように記憶と自己同一化してしまっており、記
憶が見ているように見てしまい、記憶が行うように行ってしまい、そうして
記憶にさらなる記憶を追加し、更なるカルマを背負うこととなってしまう。
私達が生み出した記憶とは私達の責任である。
何故ならば記憶(エレメンタル)とは私達が起こっている事に対して起こし
てきた反応の記憶だからであるといえる。
・そして、そこから脱出して、記憶の束縛から解放されるためには恩寵による
理解が必要とされる。ホ・オポノポノでは「ありがとうございます」「愛している」
「御免なさい」「許してください」と万物一切に対して「言霊」を唱えることで
超意識から神聖なる存在へ浄化をお願いし記憶の「浄化」「クリーニング」を
実現するものである。
この私達の状況から脱出する為には、私達の現状をまず把握すること、そして正しいワークを
常にすることが求められている。