自己責任
今日は自己責任についてのヒューレン博士との会話がユーチューブに掲載されていたので
それを紹介したい。
以前からヒューレン博士とクリシュナムルティーの類似性は指摘されていたが
ヒューレン博士が語ったという彼の「自己責任について」の珠玉の言葉があるので紹介したい。
ホ・オポノポノというと多くの方々は「成功哲学」「願望成就」の教えのように受け取られる
かもしれないが、実際にはクリシュナムルティーと同じく高次次元の意識からの人類に
対して「真実」を伝えるメッセンジャーであったと思う。悲しいかな私達人類には、これらの
思考を超えている意識からの「言葉」は「条件付けられている脳の反応」で汚染された現在
の人類の常識の範囲内では全く理解することもなく、受け入れられることもないことだろう。
生命である「思考を超えている超意識からの言葉」を思考には全く理解出来ないのである。
それ故に、思考にはそれらの言葉を理解出来ないので、内容を詮索したり、意味を思考する
ことなくただただ言葉で無心で「ありがとうございます、愛しています、ごめんなさい、許してく
ださい」と念じ、唱えなさい、というのである。それが潜在意識にある記憶からの解放に至る
というのである。
【自己責任】についてヒューレン博士は次のように語っている
●普通は「責任というのは私達は自分の行いに対しては責任があるのであって、他人の行
いに対してではない」・・・とその様に考えられていますが
●私の人生における凡ゆる人々の言動の責任は私にあります。
●多くの人はお互いに他人の言動を非難しておりますが、それは理解するより非難する方が
安易だからです。
●文字通りの意味で全世界とはあなたの創造なのです。
●私の人生におけるあらゆる人々の言動の責任は私にあります。
●私が彼らを作り出しているのです。それらはあなたの内面からの投影なのです。
●つまり、外はないのであると言うことです。
●世界や他人に関するものとは、あなたに関するものであって、それらを変えるにはあなたを
変えなくてはなりません。
●私(ヒューレン)は彼らを作り出していた自分の中の部分を癒やしているだけです。
故に、彼を作り出している自分の内側を癒やすことが出来るのです。その結果として彼らは
癒やされ、秩序が顕れてくるのです。
●実際のところ、もしあなたが自分の人生の全責任を負うのであれば、あなたが見たり
聞いたり、触れたり、経験したりする全てはあなたの責任です、それはそれらはあなたの中に
あるのですから。
●自分と他人、内部と外部を作り出している記憶を愛しなさい。愛することで記憶は浄化されて
いきます。
●あなたの人生の完全な責任とはあなたの人生の中の全てが、単に貴方の人生に存在している
と言うだけの理由でそれはあなたの責任です。ハッキリ言ってしまえば、それらはあなたの内面
からの投影である以外にはそれらは存在していないのです。
これはつまり、テロリストや大統領、経済などであり、それらを癒やすのはあなた次第なのです。
それらはあなたの内面からの投影である以外には存在していないのです。
●世界や他人に関するものとは、あなたに関するものであって、それを変えるにはあなたを変えな
くてはならないのです。
●あなたが経験する全てがあなたの責任なのです、それらは全てあなたの中に有るからです。
言ってしまえば、それらは存在していないのです。
・・・このヒューレン博士の言葉は、常識的な知性の方々には混乱と疑念しか与えないと思われます。
・・ここでヒューレン博士などが示す真理を探求している私達が陥る別種の混乱があります。それは
学ぶ私達が知っている各宗教や各学派や各哲学や各時代の賢者が言っている真理は同一の真理
を指し示めしているのにも拘わらず異なった言葉を使用しているので私達は混乱してしまっているの
です。
特に各時代の各地域で、その境地の意識内容やその賢者が理解している状態を明確に示す言語が
ないので、その教えを受け取った人々の立場からそれを受け取るわけですから、悟った方々は同じ
事を言っているのにも拘わらず自己流に捻じ曲げて違ったものに解釈して、混乱し、エゴに取り憑
かれ、果てには相争い、お互いに戦ったりするわけです。それは悟った方々にはその実相を伝える
言語もなく、手段もないからなのです。記憶には誤解しかないのです。真理を知ることはないのです。
思考には真理を知ることは出来ないのです。
ラマナ・マハリシ達が述べているところの「起こっている事、思考や行為」とはラマナ・マハリシの立ち位
置が思考ではなくて観照者であるので「全ては起こっている」と述べたのですが、それはヒューレン博士
の立ち位置からの「記憶が考え、記憶が見ており、記憶が行為している」のと同じであります。ヒューレ
ン博士が言うには「私達は自分が見て考えて行為していると絶対的に信じていますけれども、実際に
は潜在意識の中にある記憶が見て、感じて、行為している」と言っています。両者は同じ事を違う言
葉で表現しております。記憶はカルマによって数学的な正確さで使役され、DNAに従って決まった期
日に、決まった状況で、決まっているように行為と思考と感情が起こってきます。一切の出来事には
偶然はなく必然的に起こってきます。即ちカルマによって決まっているように記憶である感情と思考
と行為は使役され、出来事は起こり、為されていきます。それは私達の内面も同じです。
しかしながら
その必然的に起こっている事に対して、「魂と繋がっている先端の私」として私達は自由意志を持
っているのであり、その決まっている内部と外部に起こっている出来事、即ち記憶の反応である
行為と思考と感情に対して、自由意志を持って「愛しているよ」「ありがとうございます」「御免なさ
い」「許して下さい」と唱えることが出来るのです。
それが記憶の浄化・クリーニングなのですとヒューレン博士は仰います。
ちなみにクリシュナムルティーはそれを”「観念」(私という観念)が行為しているので私達には自由
がないのです”・・・と言っています。これらの言葉とは記憶からの言葉ではなくて魂という観照者の
立ち位置から言葉であります。クリシュナムルティーはその現実を現実と見ること自体が変革を
齎すと言います。
ヒューレン博士は大雑把にこの私という観念のことを記憶とひとくくりにしておりますが、潜在意識
の記憶は三層に分かれていて第一層は今生の記憶と前世からの記憶、そして第二層には、さらに
は個人を超えて先祖からの記憶や民族の集合意識、さらに人類の記憶、更に地球を越えている
宇宙全人類の記憶などがあり、更に第三層には神の記憶とも呼べる「アカシックレコード」もあると
言われております。
ここでヒューレン博士が内部とは外部であると言っているのはこの第三層までを含めた記憶の
事でありましょう。ヒューレン博士はここでは個人の記憶ではなくて、この全人類の記憶が内側
にあって、それが対象として記憶自身を外部に投影し、記憶が「記憶である自分自身」を観察し、
観察者として知覚していると言っているわけでありましょう。クリシュナムルティーはこの私という
観念のことを「観察者は観察される者である」と教えておられます。
同じようにラマナ・マハリシはその記憶のことを「起こっていること・思考・行為」と称して、魂の私は
行為していない、行為しているのは、「たましいからの新たに開いた目」を覆っている自我=記憶
であるとして「行為や思考を為す私=記憶」と「ラマナ・マハリシのいう真の私」を区別しています。
この「新たに開いた目」とは「魂と繋がるコーザル体の先端」でありこの先端部分の意識をヒューレン
博士は表面意識と言っております。
ラマナ・マハリシもヒューレン博士も同じ事を述べているわけですが、使用している言葉がヒューレ
ン博士はそれを「記憶」と一括して総称し、ラマナ・マハリシは「起こっている事」と言っているのです。
いずれにしても両者ともたましいの私から見えている「私という観念・記憶」のことを話しております。
ラマナ・マハリシは記憶のことをマインドと表現しているのですが正確には心ではなくて心という鏡
を覆っている思考のことでありましょう。
・・・それは「魂と繋がっている表面意識の私」ではない記憶・人格のことを述べているのですが、
肝心のその表面意識が眠ってしまっている状態なのですというのです。私達はラマナ・マハリ
シやヒューレン博士とは異なり未だ目が覚めずサイコノエティック体も再形成されていないの
ですと。
ですのでラマナ・マハリシや覚者達の書籍を読んだ読者は、それを読んでいる私とは記憶に過ぎ
ないのに、実際はこの人格の自分とは記憶に過ぎないのに、(この目とはラマナ・マハリシの目とは
全く異なり自我である記憶に過ぎないのに)自分とはラマナ・マハリシの言う「真の私」だと勘違い
して、自我という記憶の欲するままに思考し行為しその奴隷になってしまっているわけです。
また神智学系統ではその記憶の第一層の部分を人格、エレメンタル、想念形態、エレメントという
言葉で示しております。いずれにせよいわゆるそれは記憶なのでありましょう。ミルダッドはこのヒ
ューレン博士の言う記憶のことを人格と表現し「神から分離したこの人格は新しく開いた目の幻想
であり、それが生まれたのは、人間がこの思考・人格の自己の死を通じて自ら本来の自己即ち
神の自己を知るためである」と述べておられます。
要するに「魂と繋がる表面意識の私」は眠っており、「記憶」「想念形態」「起こっている事」「人格」
に覆われてしまい、見ることも聞くことも思う事も信じることも、行うこともこの想念形態・エレメン
タル・人格である記憶が全てを為しているのに気がついていないというのであります。
この記憶に占有されてしまっている表面意識が目覚める方法はあるのでしょうか?
覚者達はそれはあると言っています。
しかし、それはそれぞれの道によって方法が異なります。
それを選択するは「魂と繋がるコーザル体の先端の未熟な私」の傾向によることでしょう。
この未熟な私は未だにアストラル体もメンタル体も再形成されていない状態であり
これらの諸身体を使用することが出来ない初歩の段階だと教えられております。
この目が覚醒するための道は仏教においては座禅を主とする禅宗があり、念仏を唱える浄土宗系
があり、密教系があり、そのほかにも色々とあると思います。また、神道系の修行形態もあり
数多くの道があると思いますが、どの道でも真実の道であるならばそれぞれの魂の傾向によっ
て道は異なっていても、たどり着く頂上は同じでありましょう。
※「ある求道者の記録」から抜粋
思考が自我なのです、自我がこの私なのです、思考とは私はあなたとは別々だという観念です。
記憶の私・・それは私は万物とは異なると実感しているこの私です。知覚認識している対象を自分
ではないと実感しているこの私です。この私は本当の私ではありません。
思考とは記憶の反応です。記憶とは自我です。自我がこの私なのです。あなたではありません。
なぜならこの私は考えているからです。自分が行為していると実感しているからです。
記憶が働いている限りは、自分が行為しているという実感があります。自分が思考していると
実感があります。その実感をしているのが記憶であり、自我なのです。自我はあなたではあ
りません。
見ているのが記憶である限り、あなたは私(思考)から解放されません。
思考がある限りは自他の分裂、万物との分離があり、そして分離があるかぎり、そこには
悲しみと苦しみ、憎しみと欲望、善悪の判断、敵と味方、恐怖と憎悪と暴力、支配欲、イライラ
増上慢と自尊心、不満と満足、プライドと不安と希望と計画、動機が絶えないことでしょう。
記憶とは自我であり、自我は万物一切と自分は別々だと錯覚しそれを実感しています。
それ故に私は万物一切に感謝し、万物に許しを請い、万物に懺悔し、万物を愛さねばなりません。
万物を愛したとき万物はあなたと一つとなり、そしてあなたは思考から解放され、そこには
愛が溢れていることでしょう、平和と慶びと、大いなる歓喜が爆発していることでありましょう。
その時「蛹である思考」から新たに誕生するのが魂からの私であり、その私が目を覚ましたのです。
記憶という思考に覆われ一体化していた「たましいからの私」が目を覚ましたのです。
そのためには思考が終熄する必要があります。が思考は思考によっては消滅できません。
その消滅しようとする努力が思考だからです。
思考の消滅は恩寵に因ります。
思考即ち私が万物一切に感謝して、万物を愛したとき、私は恩寵により思考から解放される
ことでありましょう。思考から思考を超えた意識が誕生するのです。
それは丁度蛹から脱皮して蝶となるようなものです。自我の私から即ち人格の私から、記憶と
混濁している現在のパーソナリティーが脱皮して「魂と繋がる私」が誕生し露わになるのです。
それまでは卵のようで、種のようです、今迄は大空を羽ばたく鳥ではなく、また大きな大樹でも
ありませんでした。けれども現在の私達は可能性としての卵であり、蛹なのです、ですから努力して
脱皮しなければなりません。しかし、そのためには親鳥が卵の殻を破ってくれなくてはなりません。
啐啄同時が起こらねばなりません。神聖なる恩寵が不可欠です。
今までの現在のパーソナリティーから脱皮して神の子が生まれ出るのは、実は元々私達は神の子で
あったのだが、それは可能性としてであり、そこに自我のではない正しい修行努力が必要なのです。
記憶に対して全託するのではなくて、未知で内なる神に全託するのです。
記憶の命ずるままに生きるのではなくて、記憶を理解し、記憶を愛するのです。
私が私と言う記憶から解放され、未知なる目で見ることが出来たとき、そこには万物との分離はなく
万物の中に私はあり、私の中に万物があることでありましょう。
そこには私から解放された慶びと平和と感謝と愛が溢れていることでしょう。
これを単なる頭による観念としてではなくて実際の理解とするためには
毎日毎日、毎瞬毎瞬、怠りなく継続して修行する必要があるのです。