自己想起の重要性





自己想起は自己観察がなければ成り立たないし、自己観察は

自己想起がなければ成立しない。グルジェフが指摘するとおりである。



自己観察は自己想起を含み、自己想起は自己観察を含んでいる。



眠っている私達にとっては自己流での出口の見えない自己観察だけ

では迷路に迷い込む可能性が有るし、誤った自己想起では自我を

正当化してしまって鼻持ちならない「自我の肥大」状況が現出する。



ホ・オポノポノでは「御免なさい・許してください・愛している・ありがと

うございます」と唱えるのだが、この前半の部分は自己観察のワークであり

記憶に対して「御免なさい・許してください」と唱え、後半においては

自己想起であり本当の私に「愛している・ありがとうございます」と唱える

のだろう。


それは即ち

「自己観察⇔自己想起」のワークであり、専門的には肉体と幽体と霊体

を纏っている〈霊魂と繋がっている〉現在のパーソナリティーが潜在意識

の中の記憶に縛られて眠っている以上は、眠りから目覚めるために、ど

うしてもこの二つのワークが非常に重要になってくるのであろうと思われる。


自己観察とは「私自己と名乗っている記憶」の姿を曇り無く見ることであろうし

自己想起においては内奥の「たましいの私・神の子」を自己想起するのである

とおもう。この二つを同時に行う必要性がある。





ミルダッドは自己想起において私達が「私」と唱えることの重要性を私達人類

に下記の様に教えてくださっている。

ではその自己想起の実修において、私達が唱える「私」、自己想起する「私」

とはなんだろうか?


それは分離なき全体、「I AM THAT」「I AM I」であり「私は私」であることだろう。

「神を感じ、神を考え、神を語るためには、〈私〉と

いう語を発する以上のことは必要ない。

それゆえ〈私〉は、神の唯一の言葉なのだ。

それゆえ〈私〉は、〈言葉〉なのだ。」


・・・と自己想起の実修の内容を語っている。一方の自己観察においては、潜在意

識にあって私自己と名乗っている記憶の姿を曇り無く見ることであろう。

その自己観察において発見するその記憶〈偽りの私〉に関してミルダッドは下記の

様に言っている。



「・・・人間がまだおのれの〈私〉の意味を知らないゆえである。

赤ん坊が産着にくるまれているのと同じく、


人間は〈私〉という産着にくるまれている。

 
〈私〉と言うことによって、人間は〈言葉〉を二つ

に裂く。一方に人間の産着があり、他方に神の

不死の自己がある。



人間は真に分割できないものを分割しているのか?

断じてそのようなことはない。いかなる力も、〈分割できないも

の〉を分割することはできない。

神自身にもそれはできない。人間は未熟であるがゆえに、


分割を空想しているに過ぎない。そして幼児である人間は、

無限の〈大いなる自己〉が自分の存在と敵対していると信じ

て、それとの戦いに身構え、戦争に乗り出す。」




・・ミルダッドは非常に難解であり、恩寵による理解力を必要とするので私達に

とっては何のことやらさっぱり分からないのであるけれども、非常に深遠な

真理の言葉ではないだろうか。


従ってホ・オポノポノで唱えている言葉はとても深遠なのである。



ヒューレン博士の言うように、この私達の現在の未熟な状況では、自分の意識だと

思われているこの意識とは記憶の思考であり、私達の意識ではない。記憶が恐れ、不安

になり、計画し、思考し、将来を心配しているのだ。この意識とは実際には私の意識で

はなくて記憶の思考であり、肉体の脳の意識であって、魂と繋がる私の意識ではない。

たましいと繋がっている私は悲しいかな記憶に覆われていており未だ目覚めておらず

眠ったままなのであると。