知覚と認識




今日は知覚と認識についての考えを自分の思いつくままに書いてみました。


知覚や認識と言えば、誰もがその知覚や認識の前提に、まずはじめに知覚主体

や認識主体ということを措定しますが、果たしてそうなのでしょうか?


知覚とは知覚対象と知覚主体を意味しています。知覚はこれを前提としています。

従って通常の考えでは知覚主体がいて、そしてその主体が対象を知覚します・・・


・・・しかしヒューレン博士はコンピュータやAIやロボットがそうであるように主体が

知覚するのではなく、メモリーという記憶が知覚を起こしており、その結果として仮想

の知覚主体が実感され記憶されているというのです。脳に入り、脳と結合した潜在意識に

あるメモリー・記憶が脳の情報を受け取り知覚を生み出し、そしてその知覚をしている

偽の主体を生み出しているというのです。・・・それが記憶、即ちこの現在意識を占有し

ている「記憶=自己」(エレメンタル・想念形態)だというのです。


知覚者とはPCのメモリーと同じく、脳と結合した記憶が生み出している錯覚なのだ

というのです。




たましいに繋がる私と共に肉体に入り脳に結合した記憶が知覚と認識を起こしてい

るのです。

読んでおられる方は下記の文章を見て不思議に思うかもしれませんが

「記憶を愛することが記憶からの解放へと繋がるのです」(キリストの言う汝の敵を愛せよ)



ですから知覚者と認識者の実体である記憶に、そのシステムを作動させている

源泉に感謝と愛を捧げたいのです。解放されるためには愛と感謝が必須なのです。

記憶に対抗し、自分を良くしようと記憶である自分と争い戦っている者は同じ記憶なのです。

ですので知覚と認識に対して感謝と愛を捧げたいのです。

起こっている肉体や脳に対するのと同じように、起こっている知覚や認識

に対しても愛と感謝を捧げたいのです。

この私達人類の知覚と認識とは記憶がしているのです。

記憶が見て、記憶が考えて、記憶が話し、記憶が聞いて、行為している

と言うのです。見ているのは記憶であり、考えているのも記憶であり、知覚しているのも

記憶だというのです。

ヒューレン博士や天照大御祖神と一体になった神道の黒住宗忠やクリシュナムルティーは

表現や使う言葉は異なるけれども同じことを述べておられると思います。


★「立ち向かう人の心は鏡なり己が姿を写してや見ん」

★「夫婦親子は合わせ鏡」「類は友をもって集まる」「三界は唯心の所現」

★「あなたが他者の中に見えているものは、あなたの中に有るものです」

  「記憶が記憶を見ているのです・・よってすべての癒やしとは自分を癒やすことです」

★知覚者は知覚されるものです。

★認識者は認識されるものです。

★観察者は観察されるものです。

★見るものは見られるものです。

・・・と、これらは皆、異なる角度から同じことを述べているおられるのでありましょう。

かくいう私は正直なところ、上記のこの言葉の意味は殆ど理解出来ないで模索しております。


勿論これは世界の常識とは正反対のことをいっているので、世の中の常識的人々は記憶と

完全に一体化しているので、全くこれをうけいれないで否定することでありましょう。


・・・しかしながら上記の覚者達の見解に従えば

DNAによって起こっている自由意志が、その決定されている自由意志でもって

「起こっている自由意志」に対して感謝と愛を捧げる・・というのであります。


ラマナ・マハリシ風に言えば「海を見に行った塩人形が海に溶けて海と一つになる」のでしょうか?


DNAやカルマによって起こっている自由意志、そしてこの自由意志の持つ知覚と認識。即ち

私達の知覚と認識とは・・・これは記憶の知覚と認識であり、この記憶が記憶に感謝するの

だとおもわれます。



現段階の私達の意識段階・・・潜在意識的意識状態においては、私達の知覚や認識とは

記憶が為しているのだと、それは「個人の潜在意識にある全人類共通の記憶の反応」である

とヒューレン博士は言っております。


私もその覚者達の教えに従って

”記憶という「知覚者であり知覚されるもの」”に愛と感謝を捧げようとおもうのです。



その知覚者であり知覚されているものである知覚が、その自分自身である知覚に対して

ありがとうございます、愛していますと唱えることが人類の勤めであると教えられております。

それが「その知覚であり知覚者である記憶」のクリーニングに繋がると言われております。


以上のこれらを異なる角度から言えば(非常に誤解されやすいので注意を要しますが)

自我が自我を愛し感謝すること。

自我を内部と外部に観察している自我が、「見られ観察されている自我(即ち見ている自我)」

を愛すること。

記憶が記憶を愛すること。

観察者が観察される者である観察者自身に感謝して愛すること。

私が私を許し、お詫びし、愛し、感謝すること。

「他者を私ではない他者だと知覚している私」とは潜在意識にある記憶であり、

その潜在意識にある記憶が「他者は私ではない」と知覚して認識しているのだということでしょう。


他者を他者と見ているのは「自分の潜在意識にある記憶」であるのに、その記憶が「他者とは

他者であって自分ではない」と知覚している、と言うことでありましょう。記憶とは今回の自分だけ

ではなくて過去からの人類すべての個人の記憶であると言うのです。


それゆえに観察者であり観察されるものである記憶の私がその自分自身である記憶に感謝し

愛することが大切なのではないでしょうか。


これは即ち「自分を愛すること」「自分に感謝すること」だと思います。

「汝の敵を愛せよ」とキリストは教えられております。

これは非常に誤解を招いてしまう表現ではあるけれども「自己を愛すること」「自分に感謝すること」

が自分自身(記憶)の浄化・クリーニングに繋がる非常に大切なことだと思われます。



記憶が存在することができるのも、潜在意識があるからであり、潜在意識があるのはたましいがあるから

だと言われております。記憶が記憶を知覚認識することができるのも潜在意識と繋がっている表面意識

があるからであります。


即ち、記憶が有るのは鏡があるからであり、記憶が作動することができるのは鏡という「意識の座」が

そこにあるからであると思うのです。


文字を書くことができるのは「真っ白な紙」があるからなのです。

映画という映像は真っ白で透明なスクリーンがなければ上映できないのです。


この「真っ白の紙・スクリーン」こそ、私達である鏡、透明なる意識で在るのではありませんか。


私達は記憶に覆われている「鏡・たましいからの永遠の原子(コーザル体)」なのでありましょう。


私達は最初の呼吸で母親の母胎から誕生した肉体に、大生命やたましいと一緒に現在の

パーソナリティー(現在意識と潜在意識で構成されている)として肉体に入り脳と結合しました。

そしてそのたましいと繋がる私達の潜在意識の中に有る記憶も一緒にこの肉体に入ったのです。



そして更にその潜在意識にある記憶(自我エレメンタル)が自分を肉体の脳が起こしている知覚や

認識を自分自身の知覚や認識だと錯覚して肉体の死後も生き続けているのです。



ミルダッドは言います

「あなたの中に万物はあり、万物の中にあなたはある」それがあなたである。宇宙にまで拡がりな

さい!それがあなたであると。


クリシュナムルティーは言います

「私は世界であり、世界は私である」、(あなたは思考ではないのだから)「思考なく見なさい」

そして「見るものは見られるものである」と。