他者を知覚しているのは誰か?





ラマナ・マハリシは言う。「他者を知覚しているのはエゴである」と

「たましいと繋がっている私は他者を自分自身として知覚している

ので他者は存在していない」と

私は他者と分離していない。私と他者は一体であると知覚していると

いうのである。

この高次の知覚が在るときにはミルダッドの言うように「万物の中に

私がおり、私の中に万物がある」との実感があるのだろう。

すべては一つであり、分離しているものは何も存在していないことだろう。

「人の苦しみが私の苦しみ」であるとき、そこには愛があり、愛があるとき

慶びがあることだろう。そこには記憶のものではない高次の知覚と高次の

マインドがあることだろう。

ではこの「私はあなたではない、すべては分離している」と認識してい

る私達の知覚(実際は記憶が起こしている知覚)とはどのようなシス

テムで成り立っているのだろうか?



少々縮雑ではあるけれども知覚を代表する視覚について考察してみたい。

或る光源から発した光が物体に反射し目の水晶体を通って

左右上下に反転した映像として網膜に達し

その反転した映像が網膜の視神経を通じて脳に信号が送られ、

左右の脳がそれぞれの視神経から届いた像を更に反転し元の像
 
 に戻し、その情報が視神経から脳の感覚細胞に達することによっ

 て視覚は成立している。しかし視覚はあっても統覚作用による知覚

 はまだ発生していない。

 このように光エネルギーが網膜上の感覚細胞に対する刺激となっ

 て生じる感覚が視覚といわれているけれども、しかしながらこの視

 覚が発生しただけではその視覚の知覚ということは生じていな

 いのである。

 実際にはこれでは視覚は説明できても、視覚が知覚され更に認識さ

 れるプロセスを説明したことにはならないのである。


 ・・・では私達がその視覚を知覚し、そして更に認識していることとは

 どうなっているのか・・・ここから先は現代の科学では先に進めない

 ので、最新の総合超科学による説明を借用したい。

視覚を更に知覚へと変換させるためにはこの脳に届いた情報を知覚している

 知覚者(記憶)へ伝達する必要があり、そのために脳と絡んで存在している

 ある器官が必要となる→それがエーテル複体(エネルギー体)であり、この

 エーテル複体がこの脳に届いた情報・像を知覚者である「自我」(記憶・サイ

 コノエティック体)へと伝達して視覚は知覚されるようになる。

 →催眠術や麻酔が感覚を知覚させないようにすることができるのは、脳の視

 覚細胞に絡まっているエーテル複体(気を司るエネルギー体)を薬物や暗示

 (言葉の持つ力を利用しての)によってエーテル複体を一時的に麻痺させる

 からである。それ故に催眠術などではエーテル複体を作動させないように

 して表面意識を占領している記憶は痛みを感じないのである。

 知覚とは実際には潜在意識にある記憶が起こしている視覚の解釈

 であり、その記憶がしている知覚等を含む統覚のことであるからである。

 記憶が見ているのだ。記憶が判断して解釈しているのだ。


しかし、この脳が視覚した情報を、エーテル複体が知覚として伝える相手(認識

 主体)が存在していなければ知覚はされていても認識はされない。

 伝達器官があっても主体がなければ知覚は認識されないのである。

 ではその知覚を認識している主体とは?

 それはたましいを幾重に覆っている記憶という人格であるのではないか。

 認識はエーテル複体が媒体しているサイコノエティック体に伝えられて、尚且つ

 さらにサイコノエティック体から潜在意識を占有している記憶のうち今回の人生に

 おける人格に伝達される。

 さらにそれは「記憶に汚染されているがたましいと繋がっている永遠の原子の

 先端でもある開眼していない現在のパーソナリティー」へとその知覚されたそ

 の像が届き、認識される。



 ただしこの認識者であるサイコノエティック体を使用している「たましいと繋がる現在

 のパーソナリティー」は潜在意識にある記憶によって汚染されているので記憶が見る

 ように現在のパーソナリティーは見て解釈し、記憶・個人・人格が思うように現在の

 パーソナリティーは思ってしまっていると言うのである。

 記憶が見ている知覚では、記憶が見るように他者を私と分離している相手として認識

 してしまい、「私が非難している相手は自分自身なのである」という正しい認識は起こ

 らないので下記の黒住直忠の言葉を理解出来ないのである。・・・そして・・・

 「立ち向かう人の心は鏡なり己の姿を映してやみん」であり、目の前の相手とは自分

 の姿を映している 鏡なのに、その鏡を見ないで鏡に映っている自分自身を非難して

 しまうのである。記憶が自他は一如であるのに、相手を自分ではないと認識している。


 さて覚者によれば更にこの先があるとのことであるので紹介したい。

ここから先は私は全く知らないのであるけれども、この記憶に包まれてはいても未

 発達な「たましいと繋がっているこの現在のパーソナリティー」はコーザル原子でたま

 しいと繋がっていて、たましい(永遠のパーソナリティー)は「現在のパーソナリティ

 ー」の認識を更にすべて一切を認識しているというのである。

 この透明なる鏡(たましい)があるので、そもそもの、間違っている視覚及びその認識

 というものすら成立しているというのであると。





※ここでいう知覚とは統覚という意味で使用しております。視覚などのそれぞれの感覚・五感
  を整合し統一して知覚するという意味に使用しております。

※ここで言う現在のパーソナリティーとは「記憶である人格や個人」のことではなくて、「たましいと
  永遠の原子で繋がっている神の赤子の私」のことであり、人格即ち潜在意識の中に有って
  私を詐称する記憶が持っている低次思考や低次感情という反応のことではありません。                                                                                                                                                         

※人格の仕事とは潜在意識の掃除(クリーニング)をすること。

※自分とは肉体とサイコノエティック体と人格を持っているたましいと繋がっている私であり

 人格とは潜在意識にある記憶のことであります。従って人格としての私がたましいを持ってい
 るのではなくて、たましいの私が人格の私を持っていて、その人格に責任があるということです。