人の心は鏡なり
私の尊敬し大好きな黒住宗忠の言葉です
もの凄く奥が深いので理解するのが大変ですが・・
記憶は理解ではありませんから日々の生活の実践で
チャレンジして行こうと思います。
「夫れ人の心は、天照大御神の御分心にして、
我が心に非ざる故に、
是を傷むるは天心を傷むるなり。
また是れを養ふは天心を養ふなり。」
「人の心は鏡なり
己が姿を
移してや見ん」
まるでヒューレン博士が言っているかのようですね
ここで黒住宗忠が言う「人の心」「我が心」「天心」について考えました。
●人の心ではない「我が心」とは?
記憶のことであり、記憶の反応であり、それは記憶からの思考でありましょう。
記憶とは
起こっている出来事や、起こっている行為や感情、衝動、起こっている感覚また
起こっている知覚に対して反応している記憶からの思考のことでありましょう。
この記憶がカルマによって起こっている内外の出来事、即ち起こっているところの
行為や衝動や知覚に対して”自分が行為している”と錯覚してさらに反応し行為し
ています。そしてエレメンタルを作り続けています。
起こっている出来事や起こっている想念や感情や本能や欲望は「神聖なるマーヤ」
「カルマ」によってコントロールされており、人間にはどうすることもできません。
この「我が心」とはヒューレン博士によれば潜在意識にある記憶であると言っています。
記憶とは「我が心」であり、それは潜在意識にある多数のそれぞれの私達です。
その潜在意識にある私々に対して「愛している」「御免なさい」「許して下さい」「ありが
とうございます」と唱えることで、内奥の実在からのクリーニング、浄化が起こると
言われております。
この記憶である「我が心」とは、そもそもは「人の心」が起こっている出来事に遭遇した
結果生み出したもので、その私群は「人の心」に責任があるということであります。
そしてその記憶群が人の目を覆っているので人は記憶しか見ることができません。
多くの記憶達が思考を使って判断し、非難し、恐れ、欲し、願い、努力しているのです。
見ているものも、見られているものも記憶であると教えられております。
この記憶を清めるのが「人の心」の役割なのでしょうか。
●「人の心」とは
肉体の脳と結ばれて、起こっている事、さらに「我が心」という記憶に覆われてそれと一体化
してしまって、記憶がするように為し、記憶が思うように思い、そのことで更にカルマに縛
られている未熟な私の心。
ヒューレン博士は表面意識+潜在意識の私と言っています。
しかしながら可能性のある私の事。
目が開いていないサイコノエティック体の私。自分自身は「我が心という記憶」ではないのに
「我が心」と一体化している「真理の種子」である私、本来は天照大御祖神の分心である
「鏡」の私のこと。たましいと繋がってはいるけれども未形成で目が開いていない現在の私の事。
●「天心」とは
天心とは「人の心」の大本である天照大御祖神の分心である「鏡」としての心のこと。
ヒューレン博士は超意識の空である「万物である私」と言っている。
記憶の汚れが取り払われた透明なる鏡の状態での心。たましいの私のこと。我のない空の私の事。
「我の心」や「人の心」にとっては未知なる「心」のこと。思考や記憶では認識されない私の事。
元々神聖なる魂と繋がっている形成されたサイコ・ノエティック体のこと。高次のエティック体のこと。
しかしながら今の段階の「人の心」であるサイコノエティック体は再形成されておらず
「我が心」という記憶の反応に振り回され、記憶と同一化して、自分の鏡に写っている
自分の姿(相手や世界のこと)を批評し、非難し、競争し、そして自分と争い自分と戦っている。