バレエスタジオの鏡
私の本業はクラシックバレエの教師であります。
スタジオには鏡がありますが
では何故、鏡があるのでしょうか?
それは勿論自分を見るためであります。
バレエスタジオの鏡とは自分を見るためにあります。
自己関心にとらわれ、利己的で、苦しみ、悩み、恐れ、暴力的
で、不安に悩まされている私を、そのあるがままの私を見るためです。
見て、感じて、計画し、行動しているこのあるがままの私をハッキリと
見るためです。
自分のことを自己イメージで見てしまっている自分に対して
批判や判断や逃避や一体化したりするのではなくて、ただただ
見るためです。
私は自分だと思って生きているこの自分の現実のあるがままの姿を
はっきりと見て抱きしめるためです。
では、この鏡を見ている私
鏡の中の私を見ている私とは誰でしょうか?
その私とは
「自分は肉体であり、自分は思考だと思っている私」と一体となって
しまっている私・・・即ち鏡の中の私であり、その私を見ている私でもあります。
スタジオに鏡があるのは
この私を見るためです。この私を抱きしめ、私自身に耳を傾け、
この私を愛するためです。
本当は鏡が私なのです。鏡の中の私や、その私を見ている私ではなくて。
・・と、教えられております。思考ではなく、透明な意識だと教えられております。
すなわちそれは
鏡を見ている私に対して、その鏡に映っている私を自分自身だと信じ
ている私に向かって感謝し、愛を与えること。
「私だといっている記憶の反応である私」のことを非難や判断なく
見守るためであります。それが可能な私がここにいるからです。
勿論、鏡に映る身体は私のものではありません。
では鏡に映る思考や感情や知覚や恐怖や心配や不安や信念は
どうでしょうか?
思考し、考え、話し、感じ、目的と動機を持っているこの私は
どうでありましょうか?
私は私であると絶対の確信でそう思っている私
鏡に映る私を見ている私は
どうでしょうか?
鏡に映る自分を見ている私とは、鏡それ自身である私ではありません。
鏡があなたなのです・・とは多くの真実の宗教が示しているところです。
だから・・わたしは鏡に映る私でもなく、鏡を見ている私でもなく、
わたしは鏡それ自体、未知なる鏡なのでありましょう。
ただ未熟であり、数%しか意識に現れていないのです。混濁しているから
です。しかしながら
この意識は聖なる複合体なのです。
そして、その鏡の意識が顕現しマインドを使用できるようになるためには
鏡に映る私を見ている私を愛することでありましょう
だからこそ
バレエスタジオにはいつも鏡があるのであります。
「鏡に写っている私を見ている私」のあるがままの私の姿を抱きしめ
愛することが、本来の私である鏡と一つになる方法なのではないのか
と思っております
鏡に映っている私
そして鏡を見ている私
ヒューレン博士はそれは両者とも記憶の反応であり
その記憶の反応が見て、感じて、考えて、判断して、計画して行動している
のだといっています。
あなたは鏡に映る私でもなく、鏡を見ている私でもなく、鏡なのである!!
とヒューレン博士は言っています。
ヒューレン博士はあなたとは、「鏡に写っている私を見ている私」ではなくて
鏡それ自体であり未知なる私とは心(自由意志)を持っている
鏡だと言っています。
鏡に映っている私もあなたではなく
鏡に映っている私を見ている私もあなたではなく
あなたとは鏡なのですと言っています。